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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(8)敵中突破の関ヶ原、「島津の退き口」
今、歴史から元気をもらおう
2008年6月 3日 09:30

 鹿児島には「妙円寺詣り」という伝統行事がある。島津家17代当主島津義弘の関ヶ原合戦の武勇を讃えその精神を後世に伝える行事である。合戦の前夜にあたる旧暦の9月14日の夜、鎧兜に身を固めた青少年達が鹿児島から20㌔ ほど離れた義弘の菩提寺妙円寺(現在は徳重神社)まで行進する。この「妙円寺詣り」は、薩摩独特の郷中(ごじゅう)教育の一環とされていた。西郷隆盛や大久保利通を始めとして幕末の回天事業を成し遂げた志士たちも、その多くはこの行事に参加したはずである。関ヶ原の敵中突破にあたり「敵に背を見せなかった壮烈薩摩武士」の精神は、その後の薩摩の人たちの心に生きつづけているのである。

 島津義弘は1535年(天文4)、薩摩の国の伊作城で島津家15代当主貴久の次男として生まれた。義弘に大きな影響を与えたのは祖父の忠良である。薩摩藩至高の教えとされる「日新公いろは歌」を作った忠良に義弘はさまざまな教えを受けたほか、兵法書などで軍法や戦術を学んでいった。義弘が武名を上げたのは、1571年(元亀2)、日向の伊東義祐軍を加久藤(かくとう)城に迎えうったときである。3000を越す伊東軍に対しわずか300あまりの兵の先頭に立った義弘は「釣り野伏せ」という一種のおとり戦術を駆使して勝利を収めた。「南九州の桶狭間」と言われたこの戦いによって島津家の日向制圧は大きく進む。

 薩摩、大隈、日向の三州を統一し、さらに九州統一を目指す義弘だったが、その野望を砕いたのが豊臣秀吉だった。1587年(天正15)、秀吉の先鋒である秀長の軍と高城で戦った義弘は圧倒的な軍勢の前に無残な敗北を喫する。最終的に降伏を選んだ島津家では、当主の義久が降伏を申し出、剃髪して秀吉の前にでる。次いで義弘が秀吉の陣所に出頭した。このとき秀吉と義弘の仲を取りなしたのが石田三成である。三成は義弘に「決して太閤様の目を見てはならない」と示唆した。視線を合わせず伏目がちの義弘に、秀吉はひどく上機嫌だったという。秀吉は、義久に薩摩領を安堵し、義弘には大隈国、さらに義弘の嫡子久保(ひさやす)に日向を与え天下人としての度量の大きさを示した。
 
 1598年(慶長3)、豊臣秀吉が死去すると、徳川家康が事実上政権の実権を握るようになってきた。家康に対抗する一方の旗頭が石田三成である。1600年(慶長5)6月、上杉景勝征討の軍を起こした家康は諸将を率いて会津に向かう。やがて三成と対峙することになる要衝の伏見城の留守居役を、家康は当初義弘に依頼するが、実際に城に入ったのは譜代の鳥居元忠だった。城に入ろうとした義弘に対して元忠は銃を撃ちかけて入城を拒否、義弘はやむを得ず挙兵したばかりの三成に与力することにした。当時の島津軍の手勢は200人あまりだったという。島津勢は一転して伏見城を攻めることになった。伏見城は8月に落城する。小数ながら薩摩勢の勇敢な戦いぶりには目を見張るものがあった。

 しかし、この少人数ではいずれに組しても戦にはならない。義弘は国許の兄・義久に度重なる軍勢催促状を送るがことごとく無視された。「島津家として東西両軍のいずれに加担するかの旗幟を鮮明にしないほうが得策」との政治的判断が働いたものと考えられる。藩論は中立と決まったため、義弘の息子で当主の忠恒も義弘の要請に応えられなかった。そのため義弘は「直接参陣せよ」との触れを出すように申請した。これに応えて国許から義弘を助けようとする勇兵が駆けつけてきた。彼らは関ヶ原までの二百里の道をひたすら駆け抜いて義弘のもとに参陣したのである。その数は1000人あまりながらその壮烈な闘志は、主君義弘に対する捨て身の忠誠心に裏づけされていた。

 三成の挙兵を聞いた家康は直ちに軍を返し、9月15日、三成率いる西軍と関ヶ原で激突した。一進一退を繰り返しつつも、戦局はどちらかというと西軍に有利だった。そこで家康は、かねてから通じていた松尾山に陣する小早川秀秋の軍勢に鉄砲を撃ちかけて寝返りを促した。東軍の脇腹を突く役割を担っていた小早川は、突如向きを変えて自軍の側面から襲い掛かった。ここで戦況は大きく動き、勢いを得た東軍は一気に三成の軍に殺到した。このときまで島津軍は、一歩も動かず敵に向かって銃も撃っていなかった。西軍は総崩れとなり三成も伊吹山へ落ちていった。いまや関ヶ原には島津勢だけが孤立して残された。

 西軍の兵士が敵に背を向けて退却したのに対し義弘は前進退却を命じた。軍列を乱すことなく整然と進む島津勢に、東軍の猛将福島正則も道を開けて敬意を表した。 島津勢は槍に代わる武器として鉄砲を持っていた。種子島に鉄砲が伝来して以来、研究を続けてきた薩摩は鉄砲先進藩だった。鉄砲の火縄、火薬は雨を避けて油紙で覆い、兵たちは複数の鉄砲を所持し、速歩で移動しながらの射撃に習熟していた。一斉射撃は行わない。各兵が個々に狙い撃ちした。無駄打ちを避け射撃の連続性を保つためである。襲ってくる徳川勢は銃弾を受けてひるんだ。そこに決死の兵士が鏃型の陣形を組み猛然と突進して敵陣を穿つように進路を切り開いていく島津伝統の戦法である。

 決死隊はついに家康の本陣に迫った。義弘は家康と目を合わせるところまで肉薄した。しかし義弘は進路を反転させた。「合戦後、いかにして島津を残すか」を考えたとき、家康を生かしておいたほうが得策と判断したのである。一方、わが眼前をこともなげに通過する島津勢に対し、家康は井伊直政と本田忠勝率いる本隊に追撃を命じた。井伊・本田の両勢は徳川軍の中でも最強を誇る軍団である。阿修羅のように荒れ狂う島津勢も、多勢に無勢、次第に討ち取られていった。徳川勢の追撃は執拗だった。股肱の臣、長寿院盛敦や甥の豊久が義弘の身代わりになって討ち死にした。ここで島津勢は、最後の手段としてステガマリの戦法に出る。

 ステガマリとは、大将を逃がすため、決死の兵が敵の進路に座り込み、捨て構居(ステガマリ)で銃を撃つのである。撃ち終れば槍を取って敵中に踊りこみ身を捨てて捨て石となる。全員討ち死にしたあとは、次のステガマリが草に伏し銃を構えて敵を迎え撃つ。銃口は敵将に向けられている。最後のステガマリの一員だった柏田源蔵が放った一弾が井伊直政の左肩に命中した。直政は落馬し家来たちは主君のもとに駆け寄った。こうして山駕籠で走っていた義弘は、紙一重で追撃を逃れ窮地を脱した。伊勢路の山中を駆け抜けて大坂に着いたとき、島津勢はわずか80名余りとなっていた。しかし「吾が大将の首を敵に渡すべからず、この仇報ずるあたわざる時は一隊ことごとく討ち死にせよ。」との島津の家法は守り抜かれた。

 この、敵陣の中央突破するという前代未聞の退却は、後世「島津の退き口」として有名である。戦いにおけるその勇猛さもさることながら、究極は島津勢が本戦では徹底した中立を守り抜き家康の東軍に刃を向けなかった意味は大きい。退却にあたって降りかかる火の粉をはらっただけである。「戦いの帰趨が決定したとき大将を温存しておけば、後に家康に直接申し開きをする機会がある。」と考えた義弘の読みが当たった。全藩挙げて西軍に加担したのでないことも明らかだった。そして、退却戦で示した島津勢の勇猛さは家康に九州征伐の困難さを自覚させた。
 
 大坂で人質となっていた妻を奪還した義弘は9月29日、境港から乗船して一路故国を目指し無事自領の日向細島へ帰り着いた。義弘はそのまま桜島に蟄居したが、島津家は、国境を兵で固め和戦両様の構えをとった。家康が大減封を行えば一戦を辞さない構えである。家康にしても遠くはなれた南九州に軍を送る余裕はない。関ヶ原から2年後の慶長7年、家康は島津の所領を安堵、義弘の身も保証された。元和2年(1616)、家康は病を得て没した。「徳川を滅ぼすものは必ず西から来る」という遺言に従って柩は西向きにして葬られた。幕末、薩摩藩は倒幕の原動力となる。家康の予言は250年後に現実のものとなった。時の流れを通して考えれば、関ヶ原の真の勝利者は家康ではなく義弘だったといえるのかもしれない。

小宮 徹
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/


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