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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(11)篤姫と尚五郎
今、歴史から元気をもらおう
2008年7月 2日 14:00

 天保6年(1835)10月14日、喜入領主・肝付兼善の三男として尚五郎(後の小松帯刀)が生まれた。同じ年の12月19日(一説には翌年の2月19日)、今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女篤姫が誕生、一子(かつこ)と命名された。NHKの大河ドラマ「篤姫」の始めの方で、初の国入りを果たした島津斉彬が尚五郎と篤姫の誕生を祝して、それぞれに守り袋を下げ渡すシーンがある。遊び友達となった二人は、後にこの守り袋を交換する。宮尾登美子の原作にはそのような記述はないが、ドラマの中では尚五郎が篤姫に淡い慕情を寄せる描写があって物語に花を添えている。

 肝付家の祖先は、その昔、都から大隈国肝属郡に派遣され、やがて土地の名前をとって「肝付」と名乗り大隈半島中部を支配するようになった。そのころ大隈半島南端の弥寝(ねじめ)には弥寝氏が勢威を誇っていた。隣の薩摩国を領する島津氏は、かねてから大隈国への進出を目論んでいた。天正2年(1574)、ついに肝付氏と島津氏が激突した。肝付氏と連合する約束だった弥寝氏は篭絡されて島津氏に寝返った。怒った肝付氏が弥寝氏を攻めると早速島津氏が攻め込んできた。結局、肝付氏は島津の軍門に降り、弥寝氏とともに島津の旗下に入った。弥寝氏は後に小松と姓を改めた。後に尚五郎は斉彬の指示により小松家に養子に入ることになる。

 篤姫の実家・今和泉家は、重富・加治木・垂水に並ぶ島津一門家である。父忠剛は、27代藩主斉興の弟だから斉彬は甥にあたり、斉彬と篤姫はいとこ同志となる。因みに尚五郎の母親は重富領主・島津忠寛の娘で尚五郎にも島津の血が流れている。南北朝時代、南朝についた肝付家は、北朝に加担する島津家と激しく争うが、後に島津家が薩摩・大隈・日向の三州統一を果たしたときは島津の一部将となっていた。尚五郎は幕末期、薩摩藩の名家老小松帯刀となって、西郷や大久保を支えつつ維新回天の業を成し遂げる。篤姫は大奥にあって徳川最後の御台所として、江戸城の無血開城を導き江戸の戦火から救った。

 嘉永4年(1851)、斉興が隠居し、斉彬が28代藩主に就任する。藩主として初のお国入りをする斉彬一行を、接遇係りとしての忠剛が出水郷に迎えた。この地特有の「勢揃え」を見た斉彬は、その勇壮さに大いに喜び忠剛も面目をほどこした。鹿児島入りした斉彬は、一門四家の家族一同を城中に招いた。やがて面会の順番が篤姫にまわってくる。篤姫に世の姫とは異なるものを感じた斉彬は「どのような書を読んでいるか」と問いかけた。篤姫は「10才のときから日本外史の講義を受けていますが、15巻まで進んだとき師の病のためやめてしまい残念です」と悪びれずに答えた。このとき篤姫は16才だった。斉彬は、女子の身で天晴れな向学心といたく感心し「予がそのあとの7巻を贈るので、また会う日まで全22巻を通読しておくがよい」と言葉をかけた。このときから斉彬は、篤姫にある期待をかけるようになる。

 やや屈折した幼年期を送った尚五郎は、かえってこれをバネとして学問、武芸ともに熱心に修行し馬術や和歌にも才能を示し、やがて才知あふれる二才(にせ)に成長していく。名門の出ながら誰とでも気安くつきあう人柄はすでにこのころから際立っていた。尚五郎の生家は、鹿児島城下の「喜入屋敷」である。篤姫は少女時代を指宿の今和泉邸で過ごしていたので、二人が出会う機会はほとんどなかったと考えられる。二人の会う可能性があるのは日本外史の勉強会の場くらいのものであろう。島津の姫としては活発で外向的だった篤姫と、勉学熱心だった尚五郎が、ある時期机を並べて日本外史を輪読する様子を想像したくなる。ドラマでは、篤姫の入輿を知った傷心の尚五郎が、立木に向かって示現流の木刀を振るうシーンが印象的だった。
 
 肝付尚五郎が小松家との養子縁組の届出をしたのは安政3年(1856)1月27日のことである。当時小松家は吉利(よしとし)の領主であり、28代当主の小松清猷(きよもと)が琉球に赴任中急死していた。小松家を絶やさないために藩主・斉彬が、尚五郎に清猷の妹お近との縁組を命令じたものである。お近は七つ年上の妻だった。主命であれば尚五郎に否やは許されない。篤姫が斉彬の養女となり、ときの将軍家定との婚姻のため鹿児島を発ってから、すでに2年半の年月が経っていた。改めて小松姓を名乗った尚五郎の胸中から篤姫の面影は消えていたのであろうか。その想いを知って知らずか、お近は尚五郎をよく助け夫婦仲もむつまじかったという。

 同じ年の12月18日、33才の13代将軍・家定と22才の篤姫の婚儀がとり行われた。このときから篤姫は「御台様」と呼ばれるようになり名実ともに徳川家の一員となる。お付女中は近衛家から遣わされた老女幾島である。幾島は西郷経由で大奥の情報を斉彬に伝えていた。実は、斉彬は家定に将軍継嗣を一橋慶喜に決めさせるために篤姫を養女にして大奥に入れたのだった。それを知ったときの篤姫の心情は複雑だったが養父のため動こうと健気にも決意する。しかし、家定は慶喜を継嗣と決めることには消極的だった。このあと、事態は思いがけない方向に急展開する。それが篤姫の苦労の始まりだった。
 
小宮徹
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/


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