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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(13)坂本竜馬と小松帯刀
今、歴史から元気をもらおう
2008年8月 1日 15:58

 天保6年(1835)10月14日、喜入領主・肝付兼善の三男として尚五郎(後の小松帯刀)が生まれた。坂本竜馬が土佐藩郷士坂本家の二男として高知城下で誕生したのも、同じ年の11月15日である。同年の竜馬と帯刀は、後に刎頚の交わりを結びつつ幕末の激動期を相携えて維新回天の業に力を発揮する。

 尚五郎の母は、重富領主・島津忠寛の娘である。領主の家柄だけに尚五郎にもしっかりとした教育がなされ、10才から儒学と和歌を学び、一時期薩摩琵琶に熱中するが、16才になるころから武術、馬術に励むようになり、とくに馬術は達人の域に達した。一方、竜馬の生家は高知城下にある郷士・坂本家屋敷である。幼少期の竜馬は「龍のように強くたくましい子に」という家族の願いをよそに一向に冴えない子供だった。「ハチキン」といわれる気丈な姉の乙女は、14才になった竜馬を、城下にある日根野弁治道場に入門させる。この道場で剣の天稟を芽生えさせた竜馬は、やがて北辰一刀流の使い手として剣名を天下に響かせる。

 嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航したとき、江戸勤番中の竜馬は、品川海岸の警備に当てられていたので、黒船を目の当たりにし世界の大きさをひしひしと実感した。単純な攘夷青年だった竜馬が世界の目を開くきっかけとなる事件だった。このときの尚五郎は薩摩にあって未だ修行中の身であった。

 安政2年(1855)、尚五郎は奥小姓、御近習番に任じられ初めて江戸に上るが、小松清猷(きよもと)が琉球で客死したため、斉彬の命で急拠薩摩に帰国した。当時小松家は吉利(よしとし)の領主であり、小松家を絶やさないために藩主・斉彬が、尚五郎に清猷の妹お近との縁組を命じたものである。尚五郎が小松家との養子縁組の届出をしたのは安政3年(1856)1月27日のことだった。

 安政5年(1858)、小松尚五郎は、名を帯刀清廉(きよかど)と改めた。斉彬の葬儀に際しては火消隊長に任じられたのは、彼が家老の家柄にもかかわらず、友情に厚く人々から親しまれる人柄だったからである。このときから西郷隆盛を中心とする誠忠組とのつながりが生まれた。一方の竜馬は、この年に「北辰一刀長刀兵法目」を授与され9月に帰郷している。安政の大獄が起こったのはこのころである。

 文久2年(1862)、帯刀は家老吟味(見習)に抜擢され、国父久光の側御用人を命じられた。一方、竜馬は脱藩し薩摩を目指すが入国できなかった。その年の10月には、竜馬が勝海舟の思想に共鳴して弟子入りしている。文久3年(1863)7月、薩英戦争が勃発した。帯刀は、久光と藩主・忠義の側近として戦いの総指揮にあたる。戦後、いち早く英国との関係修復に動いたのは帯刀だった。10月、竜馬は神戸海軍操練所の塾頭となる。

 元治元年(1864)は多事多端の年だった。帯刀はグラバーからイギリス船2隻を購入するなど藩政の要衝についていた。このころ竜馬は、勝海舟の使者として東奔西走し、横井小楠や西郷隆盛とも知り合いつつ人脈を広げていた。7月19日長州が宮門を攻撃した禁門の変に際しては、帯刀は薩摩軍の先頭に立って長州兵を退ける。帯刀は、そのとき長州が置き去りにした米を民に配る旨の高札を立てて洛中の評判を呼んだ。このころ勝海舟は幕府軍艦奉行を罷免される。塾生の今後について、海舟に相談された西郷の話を聞いた帯刀は、竜馬以下神戸海軍操練所の塾生30人ほどを大坂薩摩藩邸に引き取った。同年生まれの竜馬と帯刀は、たちまちのうちに意気投合する。

 慶応元年(1865)5月、帯刀は西郷とともに竜馬と塾生たちを連れて薩摩に帰国。竜馬を原良の別邸にいざなう。竜馬はここから薩長連合の遊説に出る。帯刀は塾生をつれて長崎に行き、藩費から一人付き3両2分を支払って航海業に従事させた。亀山社中の発足である。社中は反幕諸藩のために武器、軍艦購入の斡旋を始める。帯刀は、長州から武器購入に際する名義貸しを頼まれて快諾し、後の艦船購入の際も名義を貸す。薩長の親善に意を尽くす帯刀だった。このころ竜馬は、小松と西郷の依頼で下関で長州の桂小五郎、高杉晋作と会談、薩長連合のための上洛を勧める。

 慶応2年(1866)正月、京都小松邸で薩長同盟が成立した。その直後、竜馬は寺田屋で刺客に襲われ手傷を負って京都伏見の薩摩藩邸にかくまわれる。そこで竜馬とお竜の結婚式の媒酌を勤めた帯刀は、その後西郷らとともに竜馬夫妻を伴い京都を出発大坂を経て薩摩に向かう。帯刀は途中長崎に寄港し、グラバーと「イギリス公使パークスに薩摩への招待状を送る旨」を約束する。鹿児島到着後、竜馬夫妻は原良の別邸に宿泊。帯刀は一足先に霧島栄之尾温泉に湯治に。3月、竜馬夫妻は、栄之尾温泉に帯刀を見舞い周辺を旅した後原良の小松邸を去る。湯治から戻った帯刀はパークス公使を迎える準備にいとまなかった。

 こうして運命の慶応3年(1867)がやってきた。帯刀は城代家老に任じられ軍事掛と造士館掛等の要職を兼務する。4月に竜馬は脱藩の罪を許され、亀山社中を改編して土佐藩附属の海援隊とした。竜馬は長崎から土佐へ向かう夕顔丸の中でイギリスの議会制を下敷きとする「船中八策」を起草する。すでに薩摩藩の中でも先進的な帯刀は、議会制に関心を持っていた。薩摩はイギリスに急接近中で情報も多く集めていた。一方、竜馬はジョン万次郎を通じてアメリカの選挙制度に興味を持っていたから、二人は早くから議会政治について情報と意見を交換する機会を持っていたであろう。竜馬の「船中八策」はある意味で二人の合作と言えるのかも知れない。11月、竜馬は京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される。直後の12月15日、王政復古の大号令が下った。大政奉還の勅許は、さしあたり倒幕の名目を失わせた。竜馬との交誼を通じて「内戦なき改革」を目指していた帯刀は、竜馬がかねてから主張していた和平論に思いを馳せながら、ほっと一息ついたことであろう。しかし、その後の事態は、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと動いていくこととなる。

小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/


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