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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(18)天璋院と勝海舟
今、歴史から元気をもらおう
2008年11月 2日 08:00

 嘉永6年(1853)3月、今泉島津家の長女一子(かつこ)は島津斉彬の養女となり篤姫を名乗った。同じ年の6月ペリーが浦賀に来航し日本国中に激震が走った。この年篤姫は、13代将軍家定に入輿するため江戸城に入った。幕末史を変えたとされるペリーの来航は勝海舟の生涯にも大きな影響を与えた。ペリー来航に慌てた幕府は今後の対外戦略について広く意見書を募ったのである。このとき勝は5か条からなる「海防意見書」を提出した。これが幕閣の目にとまり勝は正式に幕臣として採用された。篤姫と勝はこのときから目に見えない糸で結ばれるのである。

 長崎海軍伝習所時代の勝は、安政5年(1858)3月、練習艦・咸臨丸で薩摩を訪問し島津斉彬と面会する。斉彬と勝は開国や国防について大いに語り合い意気投合した。同年の4月、井伊直弼が大老に就任すると、強引に紀州家の慶福を継嗣と決定した。そうするとそれを待っていたかのように7月、13代将軍家定が病没した。篤姫は24才の若さで髪を下ろし「天璋院」と号した。続いて16日には養父の斉彬も突然病没した。嘆き悲しむ篤姫は斉彬と勝の会合を知る由もなかったが、勝の心中にも在りし日の斉彬の姿が去来したことであろう。

 井伊大老の死後、失墜した幕府の権威を朝廷の力をかりて強化しようと考えた幕府は、朝廷に公武合体を働きかけ、孝明天皇の異母妹和宮の徳川への降嫁が決定された。文久2年(1862)2月、14代将軍家茂と和宮の婚儀がとり行われた。7月には徳川慶喜が将軍後見役に就任する。かつて斉彬から慶喜の将軍就任に尽力するようにとの密名をおびて家定に嫁いだ篤姫の心境は複雑だった。今では大奥でともに暮らす家茂に心を寄せていたからである。勝もまた家茂から厚い信頼を受け自らも家茂を敬愛していただけに慶喜とは気が合わなかった。

 慶応2年(1866)7月、長州征伐のため大坂城に在陣中の家茂が病没し、慶喜が15代将軍に就任すると事態は急展開する。慶喜は勝に長州との和解調停を命じる。将軍抜きの諸侯会議を提唱した勝の提案には長州も賛成したが、慶喜は勝が交渉を行っている間に自分が主催する諸侯会議の開催を朝廷に認めさせていたのである。長州側の激怒を買い自らの面子をつぶされた勝は怒って辞表を叩きつけるが、かろうじて老中のはからいによって留任した。和宮は静寛院宮の称号を賜り、家茂の死後も大奥にとどまることになった。しかし、御台所となることは拒絶したので大奥はそのまま天璋院の差配下に置かれた。

 慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、軍備十分だった幕府軍は薩長を主力とする倒幕軍に惨敗する。ついには「最後の一兵まで戦え」といっていた総司令官の慶喜は、主力艦・開陽丸に乗って戦線を離脱してしまった。鳥羽・伏見の勝利は薩長にとっては意外だったが、もともと長年の安逸に馴れ戦うすべをしらなかった幕府連合軍は、わずかなきっかけで大崩れする要素をはらんでいた。倒幕軍に掲げられた錦旗が最後の決め手となった。このときから倒幕軍は官軍となり幕府軍は賊軍になってしまったのである。

 江戸に帰着した慶喜はとるものもとりあえず天璋院に面会を求め、「朝敵の称のご赦免を静寛院を通じて朝廷にとりなし願いたい」と深々と頭を下げた。朝敵になった慶喜が最後に命綱としたのは皇女・静寛院宮だった。天璋院は、かつて養父斉彬があれほど情熱を傾けた若者が、いま眼前で悄然としている様をみて唇を噛む思いだった。しかしながら「十五代も続いた徳川家の断絶の憂き目を見るには忍びない」と考えた天璋院は、静寛院に慶喜と面会するよう伝えたが、いったんは拒否された。しかし、天璋院に「今徳川家を救うのはあなただけです」といわれた静寛院宮は慶喜に会うことを承諾した。その後、静寛院は慶喜の赦免を求める使者を京都に送る。

 この時期、慶喜に向かってひたすら恭順を説いていた一人が勝海舟である。幕府内で徹底抗戦すべしとするとする主戦論に対して、勝は「国内の政争によって侵略された清国の例をみるまでもなく、いまは徳川一門を守るという小異を捨てて日本という国を愛し民を愛するために大同団結すべきである」と説いた。戦いを避けるには慶喜の恭順が絶対条件だった。勝の脳裏には大奥の二人が浮かんでいた。お二人から慶喜に恭順の道を示していただこうと考えたのである。静寛院宮の承諾をきっかけに勝は和平を求め本格的に動き出していく。

 3月13日、征討軍の司令官西郷は江戸攻撃の指令を先鋒隊に発したが、直後に勝と会談し翌14日には進撃中止の指令を出した。江戸城の無血開城を決めたこの会談で、二人が何を話したかは明らかにされていないが、篤姫の輿入れに尽力した西郷と、大奥で天璋院の信頼が厚かった勝のことである。二人の心中には、天璋院・篤姫に対する共通の思いがあったことはまちがいないであろう。結果として、この想いこそが江戸を戦火の海から救ったと言ってもよいであろう。

小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/


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