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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(19)明治の天璋院
今、歴史から元気をもらおう
2008年12月 1日 15:17

 9月に明治と改元された慶応4年(1868)は、幕末と維新のはざまで揺れ動いた激動の年であった。1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、幕府軍は薩長を主力とする倒幕軍に惨敗する。錦の御旗を立てた倒幕軍は、東に攻め上り早くも4月には江戸城が無血開城された。江戸に逃げ帰った徳川慶喜が一番恐れたのは朝敵の汚名を蒙ることだった。慶喜はとるものもとりあえず天璋院に面会を求め「朝敵の称のご赦免を静寛院を通じて朝廷にとりなし願いたい」と深々と頭を下げた。

 天璋院は、かつて養父斉彬があれほど情熱を傾けた若者が、いま眼前で悄然としている様をみて唇を噛む思いだった。過去のいきさつはぬぐいがたいものがあったが、「朝敵の汚名を蒙った上は徳川家の存続も危うい。15代も続いた徳川家の断絶の憂き目を見るには忍びない」と、慶喜の命綱を皇女・静寛院宮に託した。静寛院は、いったんは慶喜との面会を拒否したが、天璋院に「今徳川家を救うのはあなただけです」といわれ、静寛院宮は慶喜に会うことを承諾した。しばらくして天璋院と慶喜が静寛院の御殿を訪ねた。天璋院は自分とともに静寛院を上座に座らせ慶喜を下座に着かせた。慶喜は、自分が心底から天皇を尊崇しており和平を望んでいることを述べた。天璋院の心中を察した静寛院は「何ぞ、力になろう」と声をかけるのだった。その後、静寛院は慶喜の赦免を求める使者を京都に送る。静寛院宮の承諾をきっかけに、勝海舟が和平を求め本格的に動き出していく。

 4月4日には江戸城退去の命令が朝廷から下った。しかし天璋院は、大奥を死守するとして動かなかった。腰を上げたのは、強硬な官軍の意を恐れた幕臣が「3日のうちに移転」という命令を、「3日だけ移転」と言い換えて伝えたからである。天璋院はなんの疑問もなく身の回りのものだけもって城を出たが二度と江戸城に帰ってくることはなかった。江戸城開城前日の4月10日のことである。この日をもって15代続いた大奥は閉じられた。天璋院は徳川最後の御台所となったのである。
 天璋院は江戸城から着の身着のままで離れる前に、1通の書状を西郷隆盛宛にしたためていた。「徳川家に嫁いだからには、徳川の土になる覚悟」と言い切り「これからのことを思うと夜も眠れない」との心情をしたためた天璋院の書状は、強く西郷の心を揺り動かした。江戸城無血開城の談判で、勝と西郷が強く意識したのは天璋院の存在だった。

 江戸開城後、天璋院は田安亀之助を徳川家の当主とすべく彼の母親役を務めた。かねてからの決意にしたがって徳川家の存続を期すためである。5月24日、亀之助は徳川宗家を継いで16代徳川家達となり駿府70万石に封じられた。家達は後に貴族院議長を長く務め、大正3年(1914)には組閣の大命が下るが固辞している。

 明治7年(1874)7月20日、帰京していた和宮が東京に再住、麻布の屋敷に入る。二度と帰るまいと思った江戸だったが、東京と名を変えたこともあり先に移居していた明治天皇から上京をすすめられたこともあって、夫の墳墓の地に移住することを決意したものである。帰郷後の和宮は、徳川家達や天璋院・本寿院を席をもうけて招待している。『宮は篤姫のいったとおり、京都住まい五年のあいだに気持ちも定まったとみえ、あの強く触ればたちまち毀れそうな、玻璃に似た危なっかしさは消え失せ、見ちがえるように明るくなり、言葉数も多くなって、徳川一門のひとたちと気軽にゆききするようになった。』(宮尾登美子、天璋院篤姫)

 明治10年(1877)9月2日、和宮は療養先の箱根塔ノ沢で俄かに衝心の発作で病死する(享年32才)。若くあまりにもはかない死であった。遺骸は宮の生前の希望により芝増上寺の家茂の墓と並んで葬られた。増上寺は家康以来の徳川家菩提寺である。嫁に先立たれた天璋院は、続けて輿入れ以来薩摩と自分の架け橋になってくれた西郷とも別れなければならなかった。9月24日 西南戦争に敗れた西郷が城山で自刃したのである。
  
 明治13年(1880)9月23日から10月、天璋院は輿入れ以来初めて江戸を離れ熱海・箱根方面に湯治に赴く。和宮の終焉の地で「君が齢、とどめかねたる早川の、水の流れも恨めしきかな」と詠んで哀悼のまことを捧げた。

 明治15年(1882)秋、徳川家達は、イギリス留学を終えて帰国する。その年、家達は天璋院が選んだ近衛泰子と結婚する。明治17年(1884)には徳川宗家の嫡男が誕生したが、天璋院がその誕生を見ることはなかった。天璋院は、明治16年(1883)11月12日、千駄ヶ谷の徳川邸で波乱の生涯の幕を閉じた。享年49才。上野寛永寺に埋葬された。寛永寺は徳川家光建立の菩提寺である。夫の家定もここに葬られていた。

 徳川家は月命日の20日を「はつかさま」と呼んで、後々まで天璋院の遺徳をたたえた。その日は肖像画を飾り、天璋院の好物だった白隠元や、あんかけ豆腐を食卓にのぼらせたという。二度と生れ故郷の薩摩に帰らなかった篤姫は、その人生の大半を徳川家の一員として生きたのだった。天璋院には従三位が授けられ、上野寛永寺の家定の墓と並んで祀られた。天璋院の墓の横には、びはの木が植えられている。びはは天璋院の好物だった。

小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/


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