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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(21) 「忠臣蔵」にみる倒産後のあり方
今、歴史から元気をもらおう
2009年2月 2日 18:25

 世に名高い忠臣蔵事件は、赤穂・浅野家が取りつぶし、つまり「倒産」に遭遇したために起きた事件である。収入源を失い、いわば「失業」状態になった四十七士の心を大石内蔵助はどのようにしてをまとめ上げていったのだろうか。

 そもそも事件は浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で吉良上野介義央に「宿意あり」と叫びながら斬りかかったことに始まった。元禄14年(1701)3月14日のことである。抜刀が厳禁とされていた城内で、勅使御馳走役の役目中に働いた狼藉が許されるはずもなく、内匠頭はその日のうちに切腹を命じられた。だが、吉良上野介には何のお咎めもなかったのである。これが「松の廊下・刃傷事件」で、これがやがて世に名高い「赤穂事件」となっていく。

 浅野家への処罰は内匠頭の切腹にとどまらずお家取りつぶしにまで発展した。突然の「倒産」である。赤穂城の明け渡しの期限は4月19日であった。国家老であった内蔵助は、浅野家が所有していた武具、鉄砲、船17隻をはじめ足軽の具足にいたるまで売れるものはすべて競売に付した。また、お家取りつぶしとなってからは紙切れ同然の藩札を4割引で引き換え、城下の混乱を最小限に食い止めたのである。それもこれも家臣たちの割付金(退職手当)を少しでも多く用意するためだった。

 開城2週間前の4月5日には家臣たちに退職手当が分配された。それは下級の者たちの分配率を高くしたものだった。知行高に応じて退職金を算定しようという国元の次席家老・大野九郎兵衛の意見に、内蔵助は「大身の者は武具馬具を売って以って3年を喰ふことができる」(赤穂義臣伝)と反対した。上級武士はつつましく生活していれば、貯えて備えることもできるが下級者たちはそうはいかない。当面の生活にすぐに支障をきたす者がいる限り、余裕ある者はその道を譲るべきなのだ。ちなみに、内蔵助自身は退職手当を辞退している。経営責任者側の一人として責任をとったのだろう。もし辞退しなければ現代の金銭感覚に置き換えると約3,000万円の退職手当を受け取ることができた。

 実際に浅野内匠頭のそば近くに仕えた者はごく一部であり、内匠頭の顔を見たこともない者がたくさんいた。しかし、彼らは散り散りになりながらも、上野介が何のお咎めも受けなかったことを深く憤っていた。さらに4カ月後には内匠頭の弟・浅野大学が広島の浅野本家に引き取られ、お家再興の望みは完全に断ち切られてしまった。

 そして、君主の仇を討つために最終的に残ったのが内蔵助を中心とする47人であった。約1年半の歳月をかけて綿密な計画を練り、元禄15年(1702)12月14日、赤穂義士たちは江戸・本所の吉良邸に討ち入った。失敗は絶対に許されない。実に47人の武士が世代や階級を超えて一致団結し、主君の仇討ちを成し遂げたのである。目的を達した一同は、芝・高輪の泉岳寺にある内匠頭の墓前に上野介の首を供え、やがて裁きを受けて全員が翌元禄16年(1703)2月4日、切腹した。

 内蔵助が、お家断絶になっても彼らの忠誠心を損なわせることなくまとめることができたのは、突然の「倒産」にもかかわらず身分の低い者たちにまで、できる限りの十分な手当てをしたからではないだろうか。上に薄く、下に厚い退職金を支払うことで、内蔵助は大多数の支持を得ることに成功したのだ。これは団結して大事を成し遂げるために必要なことだった。内蔵助はできるだけ多くの家臣たちに礼を尽くしておけば、お家再興の際に彼らが再び仕官してくれるという予測をしていたのだろう。退職手当を支払う時点で、内蔵助にはすでに大きな野望への予感があったのではないか。

 討入りまでに必要な費用は、開城の際に藩札の引き換えや退職手当を支払った残金と、内匠頭の未亡人・瑶泉院の化粧料をあわせたものでまかなわれた。瑶泉院は内匠頭のもとに嫁いできたときに化粧料(小遣い銭)を持参してきたが、それを塩田業者に貸し付けた利子を化粧料に当てていた。赤穂城開城の際、浅野家は財産のほとんどすべてを手放している。金はこの二つだけでは足りず、内蔵助の蓄えから補った部分がかなりあったと伝えられている。

 内蔵助は瑶泉院に提出した「預置候金銀受払帳」に手形(領収書として手の形を押したもの)を添えて詳細に会計報告している。この「決算書」は、元禄15年(1702)11月29日付けである。討入りのわずか2週間前に経理のすべてをまとめていたあたりに、内蔵助の覚悟がうかがえる。「決算書」の費用内容は、各人の個人的な事情に沿った事項から、旅費まで様々だ。内蔵助は各人の困窮の訴えに応え、その面倒をよく見た。それは団結心をより強固にするためだけではなく、リーダーシップをとる者の責任でもあった。内蔵助にはそれだけの力量があった。金がなければ、どこからか金を調達する能力か、私財をなげうつ勇気がなければリーダーにはなれないし、人もついてこない。人柄だけでは何かを成し遂げることはできないのだ。内蔵助が全員をまとめるために払った犠牲と苦労の大きさは計り知れない。

 企業は健全な経営をしている間だけではなく、倒産するときにもその社会的責任を負う。社員たちに対してだけではなく、大企業ならばさらに社会的に与える衝撃は大きい。まずは倒産しない努力をすることが必要なのはいうまでもないが、もし倒産してしまったときには、取るべき態度というものがある。経営者は何があってもリーダーとしての役割・責任・義務から逃れることはできないのである。

 内蔵助はその覚悟があったからこそ大事を成し遂げることができたのだ。

小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/


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