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行政刷新会議のメンバーに起用された 民主党の切り札、稲盛和夫・京セラ名誉会長(下)
東京レポート
2009年10月14日 11:30

<私心なかりしか>
 稲盛氏は1932年1月、鹿児島県生まれ。県立鹿児島玉龍高校を経て、55年に鹿児島大学工学部応用化学科を卒業。京都に出て、碍子メーカーの松風工業に就職した。給与の遅配が続き、いつ潰れてもおかしくない会社であったが、稲盛氏はファンインセラミックスの研究に没頭。だが、開発方針をめぐって上司と衝突して退社した。59年、27歳のときに、同時に退社した仲間8人とともに、知人の出資を元手に京都セラミックを設立。これが京セラである。年商1兆1,285億円(09年3月期)をあげる総合電子部品のトップメーカーだ。
 84年の電気通信事業の自由化では、DDI(第二電電)を設立して通信事業に参入。西郷隆盛を信奉する稲盛氏は、このとき「動機善なりや、私心なかりしか」と、半年間にわたり自問したというのは有名な話だ。西郷は、リーダーは「天道」、つまり私心をはさまないことが一番肝心だ、と説いた。電気通信事業へ参入するにあたって、自身の動機に利己的な動機、私心がないか、自分に問いかけた。世のため、人のために事業を興す、と確固たる信念をもったから、DDIを始めたという。余人がマネできるものでない。
 2000年10月に、DDIと国策会社のKDD(国際電信電話)、トヨタ自動車系のIDO(日本移動通信)と合併しKDDIを誕生させ、名誉会長を経て、最高顧問となった。政治とのかかわりは、通信事業に参入してから。官僚が規制でがんじがらめにしていることに驚いた。「官僚支配を打破」するには、政治が果たすべき役割は大きいと考えたのだ。

<ウィルコムのピンチ>
 世のため、人のために事業を興すという稲盛氏の経営哲学は、事業の撤退を遅らせる一因になった。稲盛氏が育てた事業の末子にあたり、自ら取締役最高顧問を務めるPHS(簡易型携帯電話)のウィルコム(東京・港区虎ノ門)が大ピンチに陥った。9月24日、「事業再生ADR」を申請し、私的整理に踏み切った。三菱東京銀行UFJ銀行などの金融機関に、約1,000億円の債務返済期限の延長を要請する。
 「高速無線データ通信XGP(次世代PHS)」は10月1日に開始。設備投資に約1,400億円を要する、社運を賭けた大事業だ。その事業を進めるには、有利子負債1,285億円が重荷となる。そこでXGPの事業が軌道に乗るまで、借金返済の延長を申し出た。
 同社の前身は、DDI(第二電電)と、その親会社の京セラの出資で設立された「DDIポケット」。稲盛が手がけた事業では、京セラが長男、DDIが次男、DDIポケットが三男になる。2000年にDDIが合併しKDDIに。DDIポケットは、KDDIの子会社に組み込まれた。
 KDDIは「auブランド」の携帯電話を主力に置くため、PHS事業を切り離す。稲盛氏は自ら興した事業の存続にこだわった。京セラは、米投資ファンドのカーライル・グループと組んで、DDIポケットをKDDIから2,200億円で買収。PHS事業は、カーライルと京セラが設立した新会社が引き継いだ。それがウィルコムである。カーライルが60%、京セラが30%、KDDIはお付き合いの意味で10%出資している。
 PHSは携帯電話に完敗。カーライルは証券会社を通してソフトバンク、イーモバイルに売却をもちかけたが、断られた。宿敵のNTTに頭を下げ、NTTコミュニケーションズによるウィルコム買収を提案したが、これもダメ。カーライルはもてあまし、宿敵NTTには袖にされ、主力行は借り換えに難色を示した。そのため、「事業再生ADR」を活用して、借金返済の引き伸ばしに出たわけだ。
 携帯電話時代にPHSが生き残る余地は小さい。稲盛経営哲学がPHS事業からの撤退を阻んだことは否めない。いまや時の人になった稲盛和夫氏だが、末子のピンチに悩みは深い。

(了)

【日下 淳】


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