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コダマの核心

【傑物経営者シリーズ】日・タイ合同の傑物プロジェクトに挑戦する、80代目前の二人の戦士~個人力が無限のパワーを発揮する時代へのメッセージ(中)
コダマの核心
2012年5月19日 07:00

<アユタヤ王朝時代に起案、そして3世紀>
 「クラ地峡(Kra Isthmus)」とは、東のタイランド湾と西のアンダマン海に挟まれ、マレー半島の最峡部を形成している陸地(地峡)である。古くからスズの産地として有名であり、東西交通の要衝であった。クラ地峡の東部はタイ、西部はミャンマー・マレーシアに属しており、クラ川とサウィ湾を結ぶ最も狭い部分は、わずか44kmの幅しかない。

 この地域に、運河を通す構想が立てられることは、昔からしばしばあった。
 たとえば、記録上、初めて運河建設が起案されたのは、アユタヤ王朝時代―1677年のことである。このときは、南部ソンクラを貿易港として拡大し、タイからビルマまで船で物資を輸送する際に、マレー半島周りよりも短いルートを建設することが目的にあった。ただ、フランス人技師チームに調査を依頼したものの、当時の技術力ではその計画はあまりに非現実的であった。
 18世紀初期には、イギリス東インド会社が運河建設に興味を持った。そこで、クラ川河口付近から反対側にあるイギリス植民地付近まで探査が行なわれたが、残念ながら結果は否定的なものだったという。

sea_2.jpg 最も建設実施に近いところまでこぎつけたのは、スエズ運河の建設者レセップスであった。彼は1882年にこの地域を訪問し、建設の約束を取り付けた。ところが97年、シンガポール港の優位性を維持するため、タイとイギリス帝国は運河をそこに建設しないことに同意したのだ。

 その後、1973年にはアメリカ・フランス・日本・タイの四カ国が合同で、原子爆弾による運河開削を提案したが、これも後に中止となった。それから現在まで、結局のところ、運河の開削は行なわれていない。

 80年にプレム政権が誕生し、政権が安定すると軍部からクラ運河計画の再考が首相に提案された。そこでプレム首相は、ソンクラ大学のブーンプルック経済学部長を委員長とする委員会を設置。同時に、国家経済社会開発会委員会(NESDB)のピシット長官に別途調査を要請した。同政権のサマック通信相は、米国ビジネスマン、学者、政府関係者に対してクラ運河に関するセミナーを開催。その後、サマック通信相に対して米国の財団、日本のGIF(内閣府を主務官庁とし、外務省、財務省、農林水産省、経済産業省、国土交通省が共管する財団法人)が実行可能性調査の実施を提案した。政治家、ビジネスマン、軍人の指示を受け、今度こそうまくいくかに見えたが、国会解散によって、またもや計画は流れてしまう。
 
 およそ3世紀もの長きにわたって、多くの技術者や事業家によって、何十というプロジェクトが試みられた"南アジア最大の超巨大プロジェクト"だが、政治の問題、経済の問題、ときには宗教の問題までさまざまな影響を受け、行く手を遮られた末、いまだ実現には至っていないのだ。この巨大プロジェクトの魅力は計り知れない。タイの国内経済はもちろん、この世界的大不況のなかでの経済波及効果を考えると、何としてもやり遂げなければならないプロジェクトとして、世界中から注目されている。

 加えて、現在、マラッカ海峡において海賊の被害が後を絶たない。増大する船舶による混雑や、年々巨大化するタンカーやコンテナ船が海峡の一番狭く浅い部分を通れなくなるなど、問題が山積みなのだ。
 そういった要因もあって、この巨大プロジェクトが今、3世紀にわたる長い眠りから覚めようとしている。

<バトンは菅原通済から"産業革命家"J氏へ>
 大正時代に、この「クラ地峡運河」に目をつけた日本人がいる。
 その人物の名は、菅原通済(1894〜1981)という。菅原通済氏は東京市麹町区生まれで、父は鉄道建設業界の大立者、菅原工務所社長・菅原恒覧氏である。少年期は、日夜ケンカ・イタズラに明け暮れるような悪童だった。中学時代もケンカや放蕩に明け暮れ、たびたび学校(旧制・海城中学や東京高等師範学校附属中学校)を退学処分となる有様だった。
 しかし1912年に天啓を受けて、一念発起。日本を出国する。日本を出国後は、ジョホールにてゴム農園を興し成功、アフリカキンバレー鉱山、ロンドン、ニューヨークを歴訪し、20年に日本へ戻ってくる。

 この菅原氏は、関東大震災における復興需要で頭角を現し、実業界に躍り出た人物である。江ノ島電鉄の経営に関わったのを機に、江ノ島開発に着手。日本自動車道㈱を設立し、大船~江ノ島間に有料道路を建設。深沢地域の丘陵に高級別荘地を開発し、鎌倉山と名づけて分譲するなど、積極的に活動。戦後も湘南モノレール江の島線の誘致などに影響力を発揮し、終戦直後には父の興した鉄道工業社長として土木工業協会の初代会長に就任する。

 実はこの菅原氏が、大正時代に「クラ地峡運河」をつくろうとしていた。「ヨーロッパからシンガポール経由で来るより時間短縮になり、日本のためになる」。当時のタイ国海軍も、「東と西両側に軍を設備しないでいい」と乗り気になった。しかし、設計も終わり、資金集めも進み始めた最中になって、関東大震災が発生。計画の断念を余儀なくされたのだ。
 100年の時と紆余曲折を経て、バトンは菅原通済氏から"産業革命家"J氏に手わたされたと言える。

(つづく)
【金木 亮憲】

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