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「北九州銀行」を誕生させた山口FGの歴史(12) 
発信!北九州
2011年11月11日 07:00

<山口銀行前身の第百十銀行の沿革(12)~鈴木商店の衰退(3)>

ダイエー創立者の中内功氏.jpg 話は本題から外れるが、当時の鈴木商店とは規模的には大きく違うものの、現代で言えば中内功氏の「ダイエーグループ」のような存在だったかもしれない。戦後の消費者主体型の流通システムの構築を確立させた中内氏は、日本におけるスーパーマーケット(GMS)の黎明期から立ち上げに関わり、 ダイエーを中心とした商業施設の普及・拡大日本の流通革命に大きく貢献した。

 中内氏の父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、鈴木商店に入社。退社後大阪で小さな薬屋をはじめており、鈴木商店とは浅からぬ縁があったと言える。
 中内氏は後にダイエーの源流となる「主婦の店ダイエー薬局」(ダイエー1号店。大阪市旭区の京阪本線千林駅前)を開店。当初は薬局で、後に食料品へと進出していった。
 なお、「ダイエー」の由来は、「エイ」は祖父の『中内栄』「大阪医学校(現・大阪大学医学部)に学び卒業後、神戸で眼科医」の名前から付けられたと言われている。

 千林駅前での開店の翌年1958年には、早くも、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店。既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこした。とくに価格破壊は定価を維持しようとするメーカーの勢力の圧力にも屈せず、一躍「流通王」として世の人の喝采を浴びることになる。

 1964年、流通革命を標榜するダイエーと松下電器産業に、テレビの値引き販売をめぐって『ダイエー・松下戦争』が勃発。松下電器が仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。 この時の松下幸之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守らない安売り店への出荷は停止する」であった。

 これに対して1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動を決議。同年に、公正取引委員会も世論の声に押されるように、二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いあり」という結論を出すことになる。

 松下幸之助は、1975年に中内を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭したが、中内は応じなかったと言われている。
 約30年後の1994年に松下電器が折れる形で完全和解となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。それまではメーカーが持っていた「価格決定権」を小売業や消費者に取り戻した中内氏の功績は高く評価されている。

 1995年1月17日早朝、阪神・淡路大震災が発生。この地震により、被災地神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊し、復興が遅れるなど関西発祥のダイエーの金銭的被害は甚大で、ダイエー社員も、30名以上亡くなったと言われる。

 関東大震災を境に凋落が始まった鈴木商店(本店:神戸市)と同様に、この阪神・淡路大震災を境に、ダイエーの業績は悪化。 2001年1月30日、中内氏はその責任を取ってグループの職を全て辞任している。ダイエーは産業再生機構を経て、今はイオングループの系列会社となっている。神戸から隆盛の基礎を築いた鈴木商店とダイエーではあるが、ともに震災を契機に凋落の運命を辿ることになる。

※中内氏の「いさお」の漢字は、工偏に「刀」

(つづく)
【北山 譲】

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