<山口銀行の誕生~頭取交代の変遷(2)>
伊村光氏は1974(昭和49)年5月~1992(平成4)年6月までの18年間、山口銀行の頭取を務めたのち、取締役会長に就任。96(平成8)年10月15日に死去している。
伊村頭取の跡を受けて頭取に昇格したのは、筆頭専務の田中耕三氏であった。田中頭取は、1992(平成4)年6月から2002(平成14)年6月までの10年間頭取を務めた。退任後は、取締役会長となり院政を引くのではと思われたが、取締役も退任して相談役に就任。今も毎日出勤し役員に対して隠然たる影響力を持っていると言われる。
田中頭取の跡を受けて、代表取締役頭取に専務取締役の田原鐵之助、代表取締役会長に勝原一明氏を指名した。
しかし山口銀行は、04(平成16)年5月21日の決算取締会で、田中耕三前頭取(現相談役)から2年前にバトンタッチを受けた田原頭取に替わって、福田浩一頭取の昇格人事を発表。突然の頭取交代劇の真相をめぐって新聞各紙をはじめとしたマスコミが大々的に取り上げることになった。
当時この頭取交代劇を報じた『選択』の論調は下記の通り。
山口銀行(本店・山口県下関市)が揺れている。前頭取の田原鐵之助氏(現在は顧問)が一期二年で退任し、後任に最年少取締役の福田浩一氏が抜擢されたトップ人事が、「クーデターによるもの」(関係筋)だったことがはっきりしたからだ。
クーデターが勃発したのは五月二十一日の決算取締役会。任期満了に伴う新経営陣の顔触れを決めるにあたって、田原氏は自らの再任を含めた新役員のリストを提出した。ところが、役員の一人が田原氏の名前を外した対案を提出。十五人の取締役のうち八人が対案に賛成し、田原頭取が解任されたのだ。
内部抗争の引き金は、生命保険会社との癒着問題。田原頭取は、同行の保険商品の紹介先が一社に偏っていることを問題視して是正を求め、一部役員と激しく対立していた。この役員が解任される前に先手を打ってクーデターを決行。頭取解任の多数派工作は四月頃から進められていたという。
この背後には頭取を五期十年務め、「山銀のドン」といわれる田中耕三相談役の姿が見え隠れしている。「田原氏を頭取に指名したのは田中相談役だが、田原氏は頭取に就任早々、不良債権を一気に前倒しして処理した。不良債権の大半は田中氏が頭取時代の案件。不良債権の処理を巡って、田原頭取と田中相談役の関係がこじれた。改革を急ぐ田原氏を、相談役と守旧派が手を結んで追い落とした」(地元経済人)のが、クーデター事件の真相だという。
金融当局は「頭取交代の理由が不透明」として調査に乗り出した。頭取解任事件の余震はまだまだ続く。
このシリーズの連載を通して、百十銀行から山口銀行誕生まで、幾多の苦難を乗り越えてきたのがおわかりいただけたと思う。伊村頭取時代にクーデター騒ぎ(事情通)があったと言われるが、表面上は筆頭専務への禅譲の形であり、山口銀行本店の定礎石に刻まれている「百万一心」(「一日一力一心」とも読め、「国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得る」という意味)は、行員や退職したOBの団結の象徴でもあったと言われるが、今も修復の兆しは見えていないと言われる。
この頭取交代劇を安堵するために、山口銀行は「もみじ銀行」の救済を当局に求められ、山口フィナンシャルグループ(FG)を設立し、傘下に「山口銀行」と「もみじ銀行」を置くことになった。「北九州銀行」も当局の意向で、北九州市に本店のある金融機関の「受け皿銀行」として設立させられたとも言われている。金融再編が進むなかでの「北九州銀行」の分立新設は、過去の山口県下の銀行合同の歴史への反逆なのかもしれない。
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