福岡の名門百貨店であった福岡玉屋。その代表取締役社長の要職に永年あった田中丸善司氏が2012年3月8日、逝去された。享年80歳であった。
同氏は、1991年から食道癌に病み、喉頭癌の発生も重なって20年におよぶ闘病に対して果敢に挑んできた。その精神力には、筆者ならずとも関係者は、みな強い感銘を受けたものだ。しかし、昨年夏からは、入院生活を余儀なくされ、遂に永眠されてしまった。「闘病がなければあと10年は、地域貢献の活躍ができていた」と思われる。本当に至極残念である。
通夜(3月12日午後6時)、葬儀(13日午前11時)ともに積善社福岡斎場で行なわれた。通夜、葬儀には、延べ1,200人以上が参列。この数からみても、故人の交際範囲の広さ、友人の多さには驚かされる。故人がどれだけ友人知人たちに気配りの付き合いをしてきたかが偲ばれる。
福岡玉屋は【博多を代表する】百貨店、岩田屋は【福岡に君臨する】同業ライバルとして、互いに切磋琢磨してきた。一時期、2社は肉薄していた。ところが、都市福岡の勢いの流れが「博多から天神へ」移るに従って岩田屋の勢いが凌駕しはじめた。ただ、福岡玉屋には、グループ力があった。福岡を含む6カ所(小倉、佐賀、伊万里、佐世保、長崎)に百貨店があり、総合力では岩田屋には負けていなかった。
この時代背景を受けて、故人である田中丸善司氏が経営者として背負わなければならない宿命が待ち構えていた。「【地盤沈下する博多=中洲】でどう百貨店経営を維持発展させるか」である。故人は、1931年3月27日生まれ。慶応大学政治学部卒、53年に東京銀座松屋に入社。その後、55年9月に福岡玉屋に入社、65年4月には代表取締役に就任した。60年代後半の業績は右肩上がりで推移していた。青年社長として打つ手はことごとく当たった。怖いもの知らずの勢いがあった。絶頂時期は60年代後半から70年代前半といえる。
だが、75年を境にして、【旧都心=博多(中洲)】の急落が顕著になる。地下鉄開通に連動して大増築へチャレンジもした。しかし、博多の落ち込みは如何ともしがたい。遂に「天神進出」に活路を見いだそうとした。天神に立っているイムズの敷地を確保しようとしたが、失敗に終わったのが昭和の終わりである。故人・善司氏にとって、この天神進出の失敗の精神的な打撃度合いは表現できない残酷なものになってしまった。
混迷の打開を求めながら解答を得られない精神的な失意が続くなかで病が取りついたのではないか。ただ、善司氏の素晴らしさは、最後まで逃げなかったことである。福岡玉屋の再建に必死で立ち向かった。私財も投げ売った。だからこそ、債権関係者も故人の潔さに感銘して、最後まで支援を続行してくれたのである。
百貨店業という業態の衰退と「博多=中洲の劣化」という二重ジレンマに強いられるという時代の奔流に最後まで事業の存続の闘いに挑んできた故人・田中丸善司氏には頭が下がる。だからこそ、通夜・葬儀には1,200人を超える人たちがお別れに参集されたのであろう。オーナー魂を貫いた人であった。
安らかに成仏してください。合掌。
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