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2011統一地方選挙

福岡県議選 柳川の「乱」(前)~椛島氏はなぜ江口氏に勝てたのか?
2011統一地方選挙
2011年4月22日 11:26

椛島徳博氏 10日に投開票された福岡県議選の柳川市選挙区(定数1)で、無所属新人の椛島徳博氏(54)が7選をねらった自民党現職の江口吉男氏(61)を大差で制し、初当選を果たした。柳川市といえば、衆院7区の古賀誠・元自民党幹事長のお膝元でもある。江口氏はなぜ敗れたのか。自民党に何が起こったのか―。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とは、プロ野球元監督の野村克也氏がよく引用する名言である。まさにそれを地でいく事態が柳川市選挙区に起きていたのである。


 マスコミが報じているように、全国的に首長、県議、政令市議選挙における民主党の敗北が強く印象づけられた。民主党への逆風は地方でも強く、この柳川市選挙区も例外ではなかった。無所属新人と自民のベテラン現職との戦いではあったが、椛島氏は、民主党国会議員の秘書を経験(後述)しており、イメージ的には民自対決との見方もあった。

 その前に選挙の結果を示しておきたい。当日有権者数58,601人、投票率は54.95%。得票数は、椛島氏18.445票、江口吉男氏13.354票。5,091票の大差で椛島氏が勝利した。その背景には、(1)2期連続で無投票だったため、12年ぶりの選挙戦であったこと、(2)選挙区が今回から旧柳川市に旧大和町と旧三橋町が加わり、有権者が約2倍に増えたこと。(3)政治風土の変貌、つまり12年の間で、新柳川市が誕生し、柳川市長も交替し、市議会も定員が削減されたりするなど、柳川の政治地図も変化してしいたということなどがあった。

 選挙戦は、椛島氏が出馬表明した昨年末から始まっていた。無所属とはいえ椛島氏が、これまで民主党衆院議員の古賀一成氏(比例九州)、野田国義氏(同)の秘書を務めていたことは政治通で知らぬ人はいなかった。とくに民主党の県連代表でもある野田衆院議員は、一昨年8月、自民党元幹事長の古賀誠氏と激烈な選挙戦を演じた結果、約2万4.000票差で古賀氏が勝利し、野田氏は復活当選となったことは記憶に新しいことである。これをみれば否応なしに民主と自民の戦いにならざるを得ない。

 しかし、椛島陣営は一切「民主党」色を出さないばかりか、においさえも消し去ったのである。選挙事務所には柳川市長の為書(必勝祈願などが記されたポスター)ひとつ掲げてあるのみ。あとはひたすら、「謙虚に、真面目に、誠実に!!」をキャッチフレーズに、柳川の活性化を実現するために「チェンジを」と訴え、高校の同窓会や出身地の昭代地区を中心に草の根の選挙を展開していった。
 西鉄柳川駅や市内各所、とくに新しく選挙区になった大和町や三橋町での朝立ちを頻繁に行なうことで耳目をひきつけた。一方、江口陣営の事務所では、いたるところに自民党議員の為書はもちろん、農政連、漁政連、商工連盟、建設関連からの推薦状が貼り付けてあった。文字通り、これまでの自民党流の組織選挙であった。6期24年の実績を訴え、「子どもたちが柳川に生まれ育ってよかったと思える街づくり」を唱えた。

 一方の江口氏は、まず、有権者に飽きられていた。6期24年の長きにわたって柳川市選出の県議としての実績をご本人は強調されたが、地元では意外と人気がないし、存在感が薄い。それは江口氏が柳川に何か大きな箱モノを持ってきていないからだということではない。
 だが、「年2回の政治資金パーティには参加を強制される」「その見返りがない上に、何か仕事があるとキックバックを必ず要求される」といった地元建設業者の愚痴はよく耳にした。

 次回で触れる「政治とカネ」の問題にも関係するが、「江口氏は自らの利得のためだけに県議をやっている!」という根強い不満があったことが第一の敗因と言える。江口氏の24年間の任期は、柳川市の衰退と縮小に重なっている。「もうこれ以上、江口氏には県議をやってもらわなくていい!」という声なき声が柳川の底流にあったのだ。

(つづく)

【柳川通信員】

| (後) ≫

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