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「北九州銀行」を誕生させた山口FGの歴史(16)
発信!北九州
2011年11月17日 10:14

<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(16)~鈴木商店の破綻(7)>

  鈴木岩治郎が、1874年(明治7年)、当時番頭をしていた辰巳屋から暖簾分けして、兵庫の弁天浜で開業した鈴木商店は、1927年(昭和2年)4月5日、事業停止・清算に追い込まれる。
  創業から53年で、三井財閥、三菱財閥を凌ぐ勢いで急成長した鈴木財閥は、臺湾銀行の新規融資打ち切りにより、あっけなくその歴史に幕を閉じることになった。次々に買収した系列の会社は、競合していた三井財閥グループの買収を受けてその傘下に入ったり、あるいは自立してそれぞれ独自の道を歩むことになる。

(1)日商について
そのひとつに鈴木商店の商社部門であった「日本商業会社」がある。
1928年(昭和3年)、金子の部下だった高畑誠一を中心に再建に奔走し、社名を「日商」と改めて再出発を図ることになる。そして戦後の1968年に、岩井商店(1896年設立:大阪市)を源とする岩井産業と合併し、「日商岩井」となった。その日商岩井は、合併から10年後の1978年にダグラス・グラマン事件が明るみになり、世間を騒がすことになるが、その後日銀総裁を輩出する企業となる。

速水優氏.jpg 速水優(はやみまさる)氏は、日銀の理事から日商岩井に転じ社長を歴任。その後日銀幹部の接待汚職の責任を取り辞任した松下康雄氏の後任として、第28代日銀総裁(1998年3月~2003年3月)に就任している。

 速水日銀総裁が誕生した1998年、日本はバブル崩壊後最悪の経済状況に陥り、大規模な財政政策が取られた。金融政策においても緩和が求められることになり、1999年2月、日銀行は短期金利の指標である無担保コール翌日物金利を史上最低の0.15%に誘導することを決定。

 この時、速水日銀総裁が「ゼロでも良い」と発言したことから、ゼロ金利政策と呼ばれるようになった。ゼロ金利政策は2000年のITバブル景気を機に一時解除されるが、2001年のITバブル崩壊を機に復活。

 2006年に景気回復を理由に再び解除となるが、リーマンショックを引き金とする2008年12月の世界金融危機と米国のゼロ金利導入を機に、2008年12月19日に日銀が無担保コール翌日物金利の誘導目標を0.1%に設定することを決定。いったんは解除したゼロ金利政策を再び実施する方向へと舵を切りなおすことになる。

速水氏については、日商岩井時代の社長としての経営手腕、日銀総裁としてのデフレ対策への対応が問題とされ、その評価は決して高いものではなかった。
速水氏の後を継いだ福井俊彦氏は、速水路線(良いデフレ論)を踏襲するのではないかと予想する向きもあったが、そうした予想に反して、景気にも配慮する姿勢を見せ、デフレ脱却に向けた舵取りに転換した。

 しかし、福井総裁の後を継いだ白川方明現日銀総裁になっても、日本経済はデフレからの脱却ができず、今もゼロ金利政策を継続せざるを得ない苦しい金融政策が続いている。

昭和恐慌により倒産した鈴木商店ではあるが、その系列会社の「日商」は日商岩井となり、日銀総裁を輩出している。鈴木商店や臺湾銀行も今はなく、日商岩井も2004年4月1日にニチメンと合併して日商の名は消えたが、日の一字を残し、80年以上経過した今も総合商社「双日」として命脈を保っている。

(つづく)
【北山 譲】

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