<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(38)~山口銀行創立までの経緯(3)
大蔵省検査については、宇部銀行に同年(1943年)6月5日現在による検査答申書が残っており、船城、華浦および長周銀行に対する検査も同時期に行なわれていた。百十銀行の6月9日付注意通達にも県下各銀行で検査中とあり、同行では同月11日(金)に現金と有価証券のみの検査が行なわれ、7月19日から29日まで土曜日を除いて検査が実施された。基準日は宇部銀行と同じく6月5日で、検査による資産査定が合併条件の基礎となる関係から、各銀行の検査基準日はいずれもこの日で統一されていた。
その後、昭和18年も押しせまった、12月24日に大蔵省より県を通じて「県下銀行合同問題につき銀行代表者本省へ27日に出頭のこと」 と各行に連絡があり、26日の乗車列車まで指定し、各行に同一行動を求めている。27日大蔵省で次のような当局の内示案「山口縣下普通銀行統合要綱」が提示された。
1943年(昭和18年)12月27日に、山口県下6行の頭取が大蔵省の本省へ出頭を命じられている。前日の乗車列車の指定まで受けたとの記述は、乗り合わせた6人が揃っているかを事前に認識させるとともに、合併に対して当局の強い意気込みが伝わってくる。
平成バブル崩壊後の金融再編成により都銀、地銀が解体処理または合併させられているが、本件の合併と同様、銀行は今も金融当局の有無を言わせない監督下に置かれているのが、現状である。
統合要綱で新銀行名が山口銀行と決まる。しかし本店が下関に決まったため、宇部銀行には不満が残り、6行合併を望んでいた長周銀行は合併不適格により百十銀行に営業譲渡させられる一方、大島銀行は合同条件で意見が通ったとの安堵感を持つなど、出頭命令を受けた頭取にとって悲喜こもごもの合併要綱の内容であった。いずれにせよ翌年に新生「山口銀行」が誕生することになる。
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