<山口銀行前身、第百十銀行の沿革(37)~山口銀行創立までの経緯(2)>
以下、合同の動きについてよく整理されている大島銀行の資料により詳述すると、矢田部三四頭取が3月28日大蔵省で菊地田純武地方銀行係長と面談、同係長の名刺の裏面に「昭和十七年三月二十八日出省当行今後ノ方針ニ関シ親シク面談ス」とある。また、大日本帝國政府とある用箋に、鉛筆書きのメモが次のように残されている。
一、合併ニハ「縣ノ中心銀行ヲ設立スル趣旨ヲ前提トシテ」大乗的見地ヨリ異議ナシ
一、合併ニ依リ将来禍根ヲ残ササル様考慮願度
一、合併ノ方法ハ新立合併ニ依ル事
四月二十日迄ニ答申スル事
これを受けて、同年(1942年)4月21日の重役会で決議された答申書を22日提出した。
この約1年後の昭和18年5月3日には、蔵省銀行局長より銀行統合に関し再度協議したい旨の4月28日付出頭命令を受け、5月18日午前10時に矢田部頭取が出向いた。そこであらたに上申書の提出を要請された頭取は、同月22日の取締役会でその経緯を説明、25日頃再び上京のうえ同行の意向を改めて嘆願することとした。
同月23日には、監査役も含む重役会を開催し、「上申書ニ對シ当行ヨリ嘆願ノ件」として、(1)統合は対等合併で減資による合併は絶対反対、(2)これが認められない時は、資本金および積立金を持って買収してもらう、(3)以上の2案がいれられない時は、合併をしないで独立経営を行うとの、3点を決議している。
25日上京した頭取は大蔵省と折衝のうえ5月31日帰島、6月3日の取締役会でその報告を行い、~中略~ 県下6行の合併と新銀行設立に異議はないとの主旨の答申書に、対等合併と営業譲渡の2案を添付して提出した。
大蔵省はこれを受理し、大蔵省検査が同年6月14日より17日まで入り、合併に向け事態は進み始めた。5月3日に大蔵省の出頭命令書を受取ってから、上申書提出までちょうど1カ月、頭取と大蔵省との折衝が半月の間に2回も行われた慌ただしさである。大蔵省が統合を如何に急いでいたかがうかがえる。
※記事へのご意見はこちら