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コダマの核心

栄枯盛衰は世の常、神の摂理(4)~消費電力推移から見た九電の組織顛末
コダマの核心
2012年6月12日 15:24

<【飛翔前夜】、昭和40年が飛躍の一里塚>
 昭和40年までの10年間も、茨の道が続いた。この期間は、【飛翔前夜】と呼ばれるのではないか!!谷深ければ山(頂点)も高い。たしかにこの10年間で、最大消費電力は2倍しか伸びていない(昭和40年で232万kW)。昭和40年の認可出力は248万kWで、水力発電出力が96万kWであるから、38.7%を担っている。≪水力絶好調の時代≫であった。この10年間、各地区で水力発電所用のダムが建設されていた。

 筆者の生まれ故郷は、耳川(宮崎県)の河口に当たる。耳川の上流の椎葉に、昭和29年にアーチ式ダムが完成した。出力9万kWを誇っていた記憶がある。耳川に建設された水力ダムの総発電量は、20万kWに迫っていたのではないか。それだけ、耳川を含めた宮崎県の水力発電力に、九電は頼っていた。【黄金の宮崎の水力発電パワー】と称賛されていた。
 こういったエピソードがある。昭和40年前後まで、九電の幹部候補の新入社員たちはこの椎葉に赴任をしていた。すると独身の寂しさを紛らわすために"椎葉美人"と恋仲に落ちいり、そして結婚した――という例がたくさんある。たしかに椎葉には、美人が集積されている。900年前の平家の落人たちは、京の雅かな風情を持っていた。それが現代にも途切れずに、継承されているのである。
 企業躍進前の"産みの苦しみ時代"には、水力が40%近く貢献した。火力発電所の大半の燃料は石炭依存であった。火力発電を稼働するには、人手が無限にかかるというネックがあった。同時にこの10年間、国内石炭の発掘量が減少し、廃坑が相次でいた。石炭に頼るウェイトが減れば、従業員の頭数も減っていった。かなり楽になってきたである。この10年間は九電にとって、『中小企業から中堅企業への脱皮が鮮明になった時期』と言えるだろう。

<右肩上がりの躍進の開始された、昭和50年までの10年間>
_kyu-den1_s.jpg 昭和50年の最大消費電力量は624万kWであるから、40年対比で2.7倍増になっている。分母も相対的に大きくなっているから、九電の売上規模も増大しているはずだ。この10年間で、日本人の豊かさ(『電気エネルギー使用を増加させるライフスタイルを幸せ・豊か』という概念)が本格化した。家電類が一般家庭にも浸透し始めた時期と符合する。この時期の火力発電の燃料は、「石炭からオイルへ」の転換が加速化した。
 ところが、昭和48年の秋に「オイルショック」が勃発した。原油高騰で、九電もピンチに陥った。電気料金は値上げしないと経営は成り立たない。また、量の確保はままならない状態だ。ガスへのシフト換えも少しは前進したが、市場価格の変動に翻弄される構造には変化はない。
 国策として打ち出されたのが『原発』である。昭和45年頃から、九州内でも佐賀県玄海町に原発誘致が画策されてきた。昭和50年の原発の出力は56万kWになっている。ようやく原発による発電が期待できるようになったのは、38年前ということになる。
 九電にとっての昭和50年までの10年間を表現すると、「収益源になる原発スキルをようやく握って『ホップ・ステップ・ジャンプ』の"ステップ"のチャンスを捉えた」となる。「中堅企業から九州のリーディングカンパニーとなる礎を固めた10年間」と表現できる。

(つづく)
【児玉 直】

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