ネットアイビーニュース

NET-IB NEWSネットアイビーニュース

サイト内検索


カテゴリで選ぶ
コンテンツで選ぶ
会社情報

クローズアップ

鴻臚館と博多、古代から中世、そして・・・(後)
クローズアップ
2013年10月13日 07:00

<中世の博多につなぐ綱首と禅寺>
rekisi.jpg 「平清盛」は、別の真実も描き出しました。そうです、清盛が生きた平安時代末期には、日本には貨幣が流通していませんでした。都に暮らした清盛が、初めて貨幣に出会うのは、博多です。宋銭でした。私の小学校時代、708年に和同開珎が発行され、日本に貨幣経済がもたらされた、と習った記憶があります。先日お会いした滋賀県の小学校教師の話では、「私は6年生の授業でそんなことは教えておりませんよ。和同開珎はもっぱらお守りかアクセサリーのように、首からつりさげていました。だから真ん中に穴が開いてるでしょう」と。
 なるほど、優れた教師です。百点満点ではないでしょうが、真実を語っています。当時鋳造された、皇朝十二銭と呼ばれる国産貨幣は、一般の商品売買に役立つには少量に過ぎ、物の売買よりも呪術や占術に使われることが多かったと言われております。

 たとえば5月11日の朝日新聞の記事では、唐招提寺の薬師如来像の手の平に、3種3枚がこっそりと隠されていたり、別の例では建物の四隅に埋め込まれたりします。限られた範囲でひっそりと12種の銭は使われていたのです。それも10世紀以降は鋳造していません。いまだ日本には、貨幣経済が定着していませんでした。ところが、博多の街には宋銭が出回っていたのです。数千枚単位で甕に詰め込まれたり、数百枚単位で紐を通したりしています。博多から宋銭を全国に広めようとしたのが平氏でした。平氏滅亡後「呪い」の対象として一時後退しますが、13世紀に宋銭はそのピークに達します。

rekisi2.jpg 韓国の新安沖の沈船からは、承天寺塔頭の木簡と一緒に、800万枚28トンもの宋銭が発見されました。博多綱首は当初、太宰府の役人や、筥崎宮の神人と結託しましたが、彼らの墓所「宋人百堂(現御供所町)」に禅寺聖福寺、次に承天寺を建立させ、貿易の窓口にします。元寇時の博多綱首謝国名は有名です。「綱首らは13世紀・14世紀には中国に帰国してしまった」という説には、にわかに同意しかねます。宋から元、明にと変わる故国の支配王朝。彼らに帰るべき祖国があったのでしょうか。彼らもまた、「日本人」でしょう。

 中世終盤に現れた博多豪商は、時の実力者と結びながら活躍します。豊富な資金を背景に、「金融」の性格を強め、金利45%から90%と伝えられる「投銀(なげがね)」で、貿易の元締めとなるのです。博多の利権を狙って、少弐、大内、大友、毛利、竜造寺氏らが博多の権益を争います。最後に進出した島津氏を豊臣秀吉が追い払ったとき、焼かれた博多の街には200軒しか人家が残ってなかったとのキリスト教宣教師の記録もあります。

 応仁の乱の頃、博多の大内氏に対抗し幕府管領の細川氏が、博多をモデルに育成した、琉球・南蛮貿易の拠点都市が堺です。たびたび戦火に見舞われる博多からのリスク分散を図ってか、嶋井氏は堺に勢力を分散、神屋氏は唐津に脱出します。後に末次氏は長崎にいち早く出先を作ります。秀吉による博多復興を経て江戸時代、鎖国によって、交易の窓口としての機能を博多は喪失します。古代から中世にかけて、都の次に繁華であっただろう博多は、近世には日本におけるその相対的地位を著しく後退させながら近・現代を迎えることになります。
 いつの間にか、私も『博多』と『福岡』を同義に表現しております。

(了)
【溝口 眞路】

≪ (前) | 


※記事へのご意見はこちら

クローズアップ一覧
クローズアップ
2013年10月13日 07:00
クローズアップ
2013年10月12日 07:00
クローズアップ
2013年10月11日 12:11
クローズアップ
2013年10月11日 07:00
クローズアップ
2013年10月 9日 07:00
NET-IB NEWS メールマガジン 登録・解除
純広告用レクタングル

2012年流通特集号
流通メルマガ
純広告VT
純広告VT
純広告VT

IMPACT用レクタングル


MicroAdT用レクタングル