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「断行せよ 信念の前に不可能なし」~四島一二三伝(2)
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2013年11月20日 07:00

 四島一二三(幼名・市次)氏は、1881(明治14)年、現在の久留米市北野町に位置する金島村に、父・久五郎、母・ミエの三男として生まれた。
 生家そのものは、その後の筑後川の改修工事により、現在は川の中となっている。当時の四島家は三町程度の田を有し、7~8人の小作人を使う中農であった。
 四島一二三(市次)少年が育った当時の時代背景を簡単にさらっておこう。

 生年である1881年は、国会開設の詔が発せられ、自由党の結成など自由民権運動が勃興した年である。同じ年の誕生には、中国の小説家・魯迅(1881~1936年)などがいる。
 翌年、東京専門学校(後の早稲田大学)が創設。さらにその翌年には鹿鳴館が開館し、幕末に締結された列強との不平等条約撤廃への動きが活発になる。

clock.jpg 日本人の「海外進出」も開始された。1885年1月に、ハワイ王国への官約移民第一号となる944名が渡航。以後9年間で約2万9,000人がハワイへ移民した(アメリカ合衆国によるハワイ併合は1898年)。そしてこの年12月、 伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任し、1889年2月11日に大日本帝国憲法・皇室典範が公布され、我が国は立憲君主国としての形式を整える。
 また同年、新聞『時事新報』紙上に社説「脱亜論」が掲載されたが、これは福沢諭吉が執筆したというのが定説となっている。ちなみに1858年 に福澤諭吉が築地・鉄砲洲の中津藩中屋敷内に開設した蘭学塾を源流とする慶應義塾が慶應義塾仮憲法を制定し、攻玉社・同人社と共に「三大義塾」として並び称され、代表的な各種学校となったのも、一二三生年の頃である。大学部(ただし法令上は旧制専門学校)発足は1890年。第1回衆議院選挙が実施され、帝国議会が招集されたのも1890年のことだ。
 ちなみに、一二三氏の子息・四島司氏(元福岡シティ銀行頭取)、孫の榎本一彦氏、榎本重孝氏らは、後に慶應義塾大学へ進学している。

 1894(明治27)年、一二三(市次)少年が13歳の年、日清戦争が勃発。主に朝鮮半島をめぐる日本と清国の争いは、翌年3月の下関条約によって一応の決着を見るが、これに対しロシアはフランス・ドイツとともに、日本に対して清への遼東半島還付を要求する、いわゆる「三国干渉」を行なう。東洋の後進国が、西欧列強に対抗しながら国際舞台の中心へと出て行く幕開けと言えよう。
 このように、一二三(市次)少年が幼少期から少年時代を過ごした日本(大日本帝国)は、文明開化から富国強兵、そして脱亜入欧へと、近代国家への道を加速度的にひた走った時期にあたる。

 また、一二三氏誕生の前年(1880年)は、軍関係を除く官営事業が三井、三菱など民間に払い下げられた年だ。ここから「殖産興業」の掛け声のもと、日本の産業革命が本格的に進行する(それは財閥の形成と重なるが――)。
 福岡県には、エネルギー原としての石炭の存在があった。石炭の採掘は江戸時代には始まっていたが、1872(明治5)年に鉱山開放令が公布されて以降、明治政府や民間人により筑豊地区を中心に炭鉱開発が急速に進められた。一例を挙げれば、同年、筑前国嘉麻郡の庄屋であった麻生太吉が炭鉱業に乗り出し、後の麻生鉱業となる。また、三井鉱山の創設が1889年(明治22年)であり、炭鉱事業の近代化が進む。
 この豊富なエネルギー資源を背景として、1901(明治34)年八幡に官営製鉄所が創業を開始した。

 だが、一二三青年は、20世紀の幕開けとともに訪れた日本産業史に残るこの製鉄所の開設を、地元県民の一員として迎えることはなかった。なぜなら、それに先立つ1897(明治30)年10月、17歳の彼は移民として米国へと旅立ったからである。

(つづく)
【坂本 晴一郎】

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