ここで福田頭取が誕生した経緯ついてもう少し詳しく伝えていくことにしたい。山口銀行は2004年5月21日に開催された臨時決算取締役会議で、当時代表取締役頭取であった田原鐵之助氏は自らの再任を求める人事案を提出したが、それに異を唱える守旧派が田原頭取罷免の対案を提出。武力(多数決)によってクーデターを強行し、田原氏は頭取在任2年でその座を追われ、後任に福田氏が指名されることになった。
一方守旧派(クーデター派)に敗れた田原頭取を支持する勢力はどうだったのだろうか。事情通の話をまとめたのが表3である。
◆表3には田原頭取の罷免の動議に賛成しなかった7名が掲載されている。
取締役会議の議長は勝原一明氏が務めており、元々田原頭取と意見が合わず、また病気となった勝原会長が退任を決意。田中相談役に自身の退任と同時に田原頭取の罷免を懇願したことから、クーデターが具体的に進み始めたといわれる。
◆議長である勝原氏は過半数を確認した上で棄権に回ったため、田原頭取罷免の動議は8対7という僅差の可決と報じられたが、勝原会長は守旧派の主役の一人であり、実際には9対6名で勝負が決まっていたというのが真相のようだ。
◆下表4は監査役であるが、取締役会議で発言はできるものの議決権はない。
小川監査役は田原頭取の罷免動議に対する反対意見を切々と訴えたと伝えられているが、今はもうこの世にはいない。同じ常勤監査役であった上谷氏は小川監査役の意見に同調したものの、その後は守旧派に転じたといわれている。
また非常勤監査役であった明治安田生命の金子社長は、クーデターが実行された取締役会議には当初出席予定だったが、クーデター派の要請を受けて急きょ欠席したとの話が巷では伝えられている。
(つづく)
【北山 譲】
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