<第三章 植木頭取時代>
不祥事件の発覚(1)
米軍による原子爆弾投下を免れた維新銀行は、朝鮮戦争の特需による恩恵を受けて地方銀行の上位にランクされる地位を築くきっかけとなった。その後日本経済は高度経済成長を遂げていく。維新銀行も毎年順調な営業成績を上げたことが評価されて、絹田頭取は25年の長きにわたり頭取として君臨することができた。
第1次オイルショックが始まった翌年の1974年(昭和49年)、絹田氏は維新銀行創立30周年を節目として、頭取の座を筆頭専務の植木晃氏に譲ることになった。人事権は会長にあり院政が続くことになったものの、維新銀行に待望のプロパー頭取が誕生することになった。
絹田氏はその後も代表取締役会長として6年間君臨し続けていたが、後述する不祥事の責任を取って、80年(昭和55年)6月に取締役相談役に退いたものの、85年2月に病死するまでの5年間も現役の取締役相談役であった。1944年(昭和19年)に常務に就任以来、実に41年間にわたり維新銀行の役員を続けていたことになる。
新頭取に就任した植木晃氏は地元の西部高等商業学校(後の国立西部大学)を卒業し、しばらく近衛兵として皇居の警備に当たっていたが、同じ西部県出身の上官の知遇を得て、軍人から経済人になることを決意し、維新銀行の前身である百六十銀行に入行した経歴を持っていた。
植木晃氏は、近衛兵時代に培った規律正しい態度が上司の信頼を得て頭角を現し、頭取室長や東京支店長を歴任し取締役に抜擢された。その後常務・専務に昇格し、次期頭取候補の筆頭に挙げられるようになった。
植木氏は、東京駐在専務時代に大蔵省や日銀等の官僚と会うことが多かったが、例え若手でも、これは、と言う官僚には、盆暮れの届け物や夜の接待をして人脈を築いた。植木専務が目をかけた若手の官僚は、ほとんど出世して重要なポストに就いたと言われるほど、人物を見る目を持っていたというエピソードは今も語り継がれている。財界や大蔵省・日銀との交渉をそつなくこなした功績が評価され、行内の誰しもが認める順当な頭取就任であった。
植木頭取体制が発足した5年後の79年に、支店長による定期預証書偽造事件が発覚。取引先の不動産業者の倒産を回避するために、1977年~79年にかけて、金融業者の導入預金を不正に受け入れる手口であった。この事件による維新銀行の実質の損害額は約15億円で、現役の支店長による不祥事件は、銀行業界全体の信用を著しく傷をつけることとなった。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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