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「アジア太平洋こども会議」を見守り25年~小林専司実行委員長
「人生」極める
2013年5月 2日 07:00

 市民レベルの草の根の国際交流事業が四半世紀にわたって存続し、さらに大きな展開を迎えようとしている。今年25周年を迎える「アジア太平洋こども会議・イン福岡(以下、APCC)」のことだ。1989年、福岡市政100周年を記念して開催された「アジア太平洋博覧会」の参加事業がきっかけで始まり、94年春には日本からアジア、太平洋諸国へ子どもたちを送り出す事業も開始。これまで約2,400人を送り出している。25周年実行委員会実行委員長の小林専司氏は、初代実行委員長(第39代福岡青年会議所副理事長)でもある。常に裏方に徹しながらAPCCを見守り続けた同氏に、話を聞いた。

<暴雨下での開催、決断を迫られた夜>
 1989年7月、台風が直撃した福岡市で、小林氏は喫緊の決断を迫られていた。暴風雨に見舞われた第1回APCC開催初日、はるばるアジア、太平洋諸国から迎え、ようやくホストファミリーのもとへ送り届けた子どもたちを、悪天候下のキャンプ場に連れて行くべきか否か。医師団は強い懸念を示し、会議室に集まった初代APCCスタッフの意見も真っ二つに割れていた。深夜近くに始まった会議は、緊張と熱気を帯びたまま明け方3時になっても収拾がつかない。どちらの意見も、痛いほどによくわかる、責任者として自分はどうすべきなのか―と悩む小林氏がふと顔を上げると、一同がじっと同氏を見つめていた。

 「実行委員長、決めてください」―言われたのはその一言だった。35カ国、地域から来た1,110人の子どもたちの安否に対する責任と、スタッフ全員の思いが、双肩に一気に覆いかぶさった。そして3分間悩んだ末、小林氏は皆に「キャンプを決行する」とはっきりと告げた。

 初代実行委員長を務めた頃を振り返り、小林氏は当時のことを「もう二度とあんな思いは味わいたくない」と苦笑する。しかし同時に、「素晴らしい体験だった」とも語る。決行を支持したスタッフは喜んだが、反対したスタッフは渋面した。だが、それは一瞬に過ぎなかった。反対派も「わかりました、やるのですね。やると決まれば、私たちは成功のために最善を尽くします」と、状況は一変した。

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 キャンプを成功させるためには、開催を危ぶむ者の意見に一つひとつ解決策を見出していけばいいのだ。この日のために、昼夜問わず奔放してきた皆の知恵を集めれば、解決策を見出すのは難しいことではなかった。即、皆で手分けをして対策を練った。キャンプ場でも最大限の努力を払い、多くの子どもたちを楽しく交流させることに成功した。最初は、肌や髪色、そして言葉も習慣も違う相手に戸惑いを覚えていた子どもも、イベント終了時には空港で、抱き合ったり泣いたり笑ったりしながら別れを惜しんだ。「ああ、あのとき、実行してよかった」―小林氏が初回イベントの成功を実感したのは、このときだった。

<「まずは走るだろ?だからお前たちが好きなんだ」>
 「アジア太平洋博覧会参加事業として、アジア、太平洋諸国、地域から子どもたちを1,000人招こう」という意見が出たとき、当時、第39代青年会議所副理事長だった小林氏は、真っ先に反対した。前例がない大事業をいったい誰がやれるというのか。青年会議所の方でも、全国青年会議所会員大会という大事業を抱えて、プレッシャーも感じていた。これ以上の重荷は背負いたくなかった。しかし、「責任者というものは、反対している者のところに回ってくるものですよ」と小林氏は笑う。そしてやると決まれば、迷うことなく成功に向けて走り出すのが小林氏だった。

 さっそく福岡青年会議所が中心となって、100名ほどの実行委員会を結成。まずは実行すべきことを2つに絞った。仲間たちも、理屈にこだわるより、まず走り出してみることを良しとしていた。ホームステイを介した交流事業なら、韓国との間で行なっていた経験がある。また、一人ひとりが何がしかの人脈を持っていたのも心強かった。苦悩したときもあったが、皆で手分けして諸国へと飛んで各国の市長に頭を下げると、大体は事態が好転した。
 「メンバーは、皆熱く、やる気に満ちていましたよ」と小林氏。そんな彼らを、とある財界の大物が「お前たちは政策を語らん。まずは走るだろ?でもだからこそ、お前たちが好きなんだよ」と温かく励ましてくれた。今もその言葉が忘れられない。

<「俺が俺が」と言う人がいない、だからこそ永く愛される>
kobayasi.jpg APCCのことを語り出すと楽しくて話が尽きないという小林氏に、「なぜ25年も続いたのか」と問うと、「子どもがテーマだからでしょう」という答えが返ってきた。社会の未来を担う子どもたちの笑顔のためだからこそ、皆が無私無欲になれるのだと。今までAPCCに関わった人々には、そうそうたる顔が並ぶが、誰一人、イベントの実績を我が功績と自慢する人がいない。成功を収め、「このまま終わらせるのはもったいない」という声を受け、第2回目も福岡青年会議所主催で引き継いだ。3回目からは財界が会をつくって資金集めをを引き受けてくれた。それも子どもたちの幸せを願えばこそだ、と小林氏は言う。

 「こども会議は、組織がしっかりしています。行政、経済界の両輪がしっかりできています。実行委員会も、ボランティアも一所懸命で、気持ちが良い。自己中心的な人が誰一人いないのです。だからこそ25年も続いているのですよ。私もこの事業がずっと続けばいいと思っています。だから裏方に徹します。そうすれば良い結果がついて来ると思うのです」(小林氏)。

<グローバル人材育成事業としての成長を願って>
 あくまでも謙虚な姿勢を保つ小林氏だが、その功績は大きい。APCCのような大規模な国際交流イベントが四半世紀もの長期にわたって続いているのは、全国でも類を見ない。あのときの「もう二度とあんな思いはしたくない」という決断が、今をつくっているのだ。

 そして、「なぜ子どもたちに海外交流をしてほしいと思うのか」ということについては、小林氏なりの動機がある。それは、「海外に友達がいれば、人は自ずから海外に行きたいと思うでしょう」ということだ。観光でもない、ビジネスでもない。そこに友達がいるからという理由で、国境という垣根を越えてもいいではないか、いやむしろ、そうあってほしい、と小林氏は望む。国や人種の違いという垣根があるのは仕方がないにしても、「それを越えるのが怖い」という理由で、これまでどれだけ多くの惨劇が地球上に勃発したことだろう。

 APCCで得た「国や人種が違ってもわかり合える」という体験は、一生の宝だ。だからこそ、過去「こども大使」を務めたOB、OGのための「ブリッジクラブ」を立ち上げた。30歳になったあの頃の子どもたちが、再びAPCCに戻ってきてくれたときは嬉しかったという。彼らがつくるこれからの未来は、どんな社会になることだろう。

 そんな思いを抱く小林氏がこれからのAPCCに期待する方向は、「グローバル人材育成」事業のますますの充実だ。どんな育成事業を行なうのか、それも若い実行委員達が新しいものの見方で試行錯誤しながらつくり上げてくれるだろう。「若者が新しいことを始めないと何事も始まらないでしょう。若い人ががんばらないと世の中は変わりません」(小林氏)

 小林氏自身も、走り続ける姿を見守られ、励まされたことで今をつくってきた。行政や経済界のトップに立つ人々、外国の子どもたちを受け入れてくれた家庭の人々、実行委員やボランティアの仲間、そして何より子どもたち。この多くの人々への感謝は尽きない。その思いこそが、四半世紀続いたAPCCの原動力なのは間違いない。

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【黒岩 理恵子】

▼関連リンク
・日本代表として国際親善してみよう!~「こども大使」参加者募集中


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