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特別取材

激変時代を生き抜いた日本とカンボジアの「架け橋」(2)
特別取材
2013年8月18日 07:00

<ピンチを救ったのは苦学し身に付けた技術>
 「昼は図面を見て機械をつくり、夜は図面を見て学ぶ、勉強をしながら実践をするということをやっていました。そのとき、職場が埼玉で、住まいが東京でしたから、朝6時ぐらいに出て、学校が終わるのは夜の11時前後です。その前に通っていた夜間中学校は羽田の近くでした。あのときはまだ若かったから耐えられた。学校では、まじめな人もいっぱいいたけど、普通の学校に行かない若い人たちもいて、多分いじめがあったと思う。だけど、ポル・ポト時代の苦労があったので、全然いじめだと感じなかった」。

 87年、超音波洗浄機の会社を辞め、半導体製造の機械をつくる会社に入社。そこでも新たに専門学校に2年通い、電子設計の技術を学んだ。時を前後して、カンナリット氏は同じカンボジア難民の女性と結婚する。苦労のなかでようやく手に入れられた幸せ。しかし、それも束の間、90年前半のバブル崩壊で会社が倒産寸前になり、カンナリット氏も含めて社長家族以外の社員がすべてリストラされるという憂き目に遭った。まだカンボジア国籍であったカンナリット氏は、日本社会の誤解・偏見が障害となって、その後の就職先がなかなか見つからなかったという。

 再び苦境に陥ったカンナリット氏だったが、これまで苦学しながら身につけてきた技術が同氏を救った。リストラされた会社の製品について、組立から設計までできる技術を持っていたカンナリット氏に、納品した機械のアフターケアを行なう仕事が回ってきたのである。フルコミッションだが、カンナリット氏1人しかやっていないため、社員のときよりも給料が上がった。そして90年代前半、その仕事をきっかけに起業をした。

<正直さで得た信用を背景にカンボジア政府の通訳へ>
cambodia01.jpg ちょうどその頃、カンボジアの内戦を終息させるため、和平協定を結ぼうという動きが出ていた。91年10月、パリ和平協定が締結。当時、英語ができる人材が不足していたカンボジア政府は、クメール語と日本語の通訳を探していた。

 「ちょうど私くらいの年代で語学能力がわかれるそうです。たとえば、私より日本語が上手い人はクメール語ができない。一方、私よりクメール語が上手い人は日本語ができない。通訳は5~10人ぐらいでした。僕は政治家や日本のテレビ局、雑誌、新聞の現地取材といった仕事を受けました」。

 カンナリット氏はフン・セン首相が来日した際、政府の通訳を務めた。その仕事が回ってきたのは、ただ言語が話せたからというわけではない。通訳のなかには、適当にごまかしたり、嘘をついたりする人間もいた。カンナリット氏が抜擢されたのは、その正直な仕事ぶりが理由だった。そして、JICE(日本国際協力センター)に登録(97年まで)し、通訳の仕事を手がけるようになった。

 とはいえ、不安定なカンボジアでは、通訳といえども身の危険にさらさることも多かった。「最初に通訳の仕事を紹介されたのは、28~29歳のときです。そのとき、まだカンボジアは安定しておらず、銃声が時々聞こえていたくらいです。現場には防弾チョッキを着て行っていました」という。

(つづく)
【山下 康太】

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