<屋久島>
リーマンショックの後も、経済には波がありやがて景気は自然に回復してくるものと考えていた。それは今も変わらない。だが景気回復の勢いは予想以上に弱く、そのうえ東日本の震災、さらにユーロ危機と嵐が続き、福岡にあって上場を目指すような企業は再び皆無となった。そして、地元で上場準備ができる人材もほとんどが福岡での就職を諦めて東京に出て行ってしまったことも聞いた。
そういう経済環境・雇用環境のなかで、他社で取締役であったような人材、それも管理の人材を採ろうというような会社は存在しなくなってしまった。
それであれば、私も数人の会社から、再出発を図ろう、と考えることができた。
リーマンショックでは、何十万人もの人が派遣切りにあって失職したのだ。身を縮めて再出発することは、そういう時期に会社を潰し、多くの社員の雇用機会を失った役員として負うべき十字架であると。
3月中旬、Lupraのメンバーで、開業したばかりの九州新幹線を利用して屋久島に向かった。
3日間の日程だったが、その中日に有名な縄文杉登山にチャレンジする予定であった。
鹿児島港からジェットフォイルに乗って1時間半、水平線上に常緑樹に覆われた山肌が見え、その上方は雲に隠れた屋久島が見えてきた。
水上アルプスのような島で、この島の最高峰である宮之浦岳は標高が1,936mであり、九州の最高峰でもある。湿った風が吹く洋上にこのように山並みが連なった島があるので、ほとんど一年中霧のような雨ばかり降っている。
その夜はホテルで美味しい食事に舌鼓を打ち、早々に就寝し、翌朝4時に起きて縄文杉登山に臨んだ。社長以下、全部で6人のうち、中高年の男性2名は当初より辞退していたが、それ以外、黒田社長と私を含めた4人で一日がかりで縄文杉を目指した。
縄文杉登山は、天然の杉林のなかを行くトロッコ道を延々3時間ほど歩き、その後さらに3時間をかけて急峻な登山道をのぼっていく。途中の100メートルの連続急階段では運動不足の私は太ももの筋肉がマヒするくらいの負担だが、何とか上りきることができた。
あまり周囲を眺める余裕もなかったが、当初は鬱蒼とした南洋の植物相が、だんだん灌木調の高地のそれとなり、また周辺の山々の尾根が、はるか見上げる高さだったのが、やがて自分の目の高さに近い位置になってきた。
このようにして途中休憩をはさみながら進んだ。
すると午後2時頃になり、ようやく標高1,300メートルに位置する縄文杉が眼前に姿を現した。数千年の時を超えて生き続ける縄文杉を前にして、生計を営むための苦労など、大したことではないと、そう思えた。
悠久の生命力をみなぎらせた老木の雄々しい姿に目を見張ったが、やがて滲んで見えなくなった。目頭が熱くなった。
リーマンショック以来、私の体内に溜まりに溜まってきた澱が洗い流されるような、そんな旅でだった。
<プロフィール>
石川 健一 (いしかわ けんいち)
東京出身、1967年生まれ。有名私大経済学卒。大卒後、大手スーパーに入社し、福岡の関連法人にてレジャー関連企業の立ち上げに携わる。その後、上場不動産会社に転職し、経営企画室長から管理担当常務まで務めるがリーマンショックの余波を受け民事再生に直面。倒産処理を終えた今は、前オーナー経営者が新たに設立した不動産会社で再チャレンジに取り組みつつ、原稿執筆活動を行なう。職業上の得意分野は経営計画、組織マネジメント、広報・IR、事業立ち上げ。執筆面での関心分野は、企業再生、組織マネジメント、流通・サービス業、航空・鉄道、近代戦史。
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