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「断行せよ 信念の前に不可能なし」~四島一二三伝(26)
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2014年1月 6日 13:23

 戦争中、四島一二三はその遂行に特段非協力だったわけではない。むしろ人一倍、自分のできる範囲で協力は惜しまなかった。
 日中戦争が激しさを増し、戦死者が増えてくると、知り合いでなくとも遺族の家に花を届けた。10周年を記念して社員から送られた銅像は、政府の金属供出の呼びかけに応じ「汝、胸像よ吾にかわりて出陣し、最後のご奉公をせよ」と書かれた木札を胸にかけ他に先駆けて供出した。
 福岡無尽の手持国債高128万円、軍需産業向け資金供給源となった興業債券、志那事変貯蓄債権などの手持高は44万円という具合である。

yuyake_8.jpg だが、青年期をアメリカで過ごし、その国力を肌で知っている一二三は、アメリカと戦争することの困難さをよくわかっていただろう。また日本人排斥運動に見られる黄色人種への偏見と差別の心情も。
 太平洋戦争が始まると、在米日本人はもとより、アメリカ国籍を持つ移民一世と、その子孫で日本人の血が16分の1以上混ざっている日系アメリカ人の強制立ち退きと強制収容が行なわれた。アメリカの強い影響下にあった中南米諸国でも同様の政策がとられた。かつて一二三と苦難をともにした仲間やその子孫も多く含まれていた。その中で日系人のみで編成された「第442連隊」は、のべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という多大な犠牲を出し、欧州戦線で戦った。彼らが受けた勲章の数は、他のどの連隊よりも多かったのである。

 6月19日の福岡空襲を契機として、都心の大きな木造家屋は強制疎開させられることになった。本店営業所は取り壊され、天神88番地の元筑邦銀行福岡支店の事務所へと移転した。一二三はこの事務所に終戦までの数週間泊まり込み、自炊をしながら生活した。手押しポンプを用意し、もし空襲で火災が起きれば消火して事務所を守る決意であったという。

 終戦の混乱の中を、生命をかけて守り抜いた会社はたくましく生き延びた。
 空襲による被災者のために、手数料無しで250万円余りに達する未給付口掛金の解約払戻と、258万円におよぶ満会給付を行なった。
 45期(1945年12月)は赤字となったが、12月1日より宿願であった普通預金と定期預金の業務取扱を開始することができた。
 金融緊急措置令がとられ、46年2月に新円切替、3月には預金封鎖が実施された。猛烈な戦後インフレと物資不足で社会経済は混乱の極みに達したが、それまでの堅実経営が功を奏して福岡無尽は揺るがなかった。
 焦土のなか、福岡市民も復興に向け立ち上がった。5月25日には博多復興祭が開催され、博多松囃子が復活し、どんたく行列を行なった。7月には紙に豊太閤の絵を描いた子供山笠が、おっしょい!おっしょい!の掛け声とともに街中を舁き回った。いずれも戦時下では中止されていたものである。

 財政上、1,233億円の国債の処理とともに、1,047億円の戦時補償債務の問題が経済再建のため乗り切らねばならない当面の課題だった。戦時補償債務は、軍需品の未払代金や徴用後に撃沈された船舶に対する補償、工場の疎開経費などで政府が民間に対し持っていた債務である。GHQの強い意向で7月にその打ち切り方針が決定した。
 8月15日に「金融機関経理応急措置法」が公布施行され、勘定は新旧に分離された。10月の「金融機関再建整理法」により、戦時補償打切によって生じた損失は一定基準により転嫁し、なお損失があるときは、政府によってそれぞれに補填されることになった。

 福岡無尽では、政府によるこの補填を何ら受けず自主再建を行なった。全国的にも希有な事例であり、整理が完了した48年3月31日の決算での欠損はわずか79万4,000円だった。戦時補償打切の対象となった株式や外国証券類を35万円しか保有していなかったことも幸いした。
 
 1948年から、大分、佐賀両県への進出が開始された。同社の第1号支店となる別府支店を1月16日に開設したのを皮切りに、大分県内に1出張所7会場を3月中に開設した。
 経済再建のため鉄と石炭の生産量を集中的に急増させる傾斜生産方式がとられ、インフレを抑えるため49年よりドッジ・ラインによる強烈な均衡財政が実施された。当然ながら深刻なデフレとなるが、50年6月25日に朝鮮戦争が勃発。これがもたらした特需ブームにより、回復基調が鮮明となる。

 48期(48年4月)から54期(同51年9月)にかけ、福岡無尽は「第2次業容発展期」とも呼べる著しい成長を見せる。資本金20万円を6,500万円へ増資し、無尽契約高は6億4,600万円から73億5,800万円へ。預金量、資金量、融資額、そして純益も劇的に増加した。営業区域を宮崎、山口、長崎の3県にも拡大。相互銀行への転換を目指す。
 51年6月、元の場所に新たな鉄筋コンクリート造りの本店を落成させ、同10月福岡相互銀行が誕生した。社長に就任した一二三は71歳となっていた。この年9月、サンフランシスコ講和条約が締結。翌年発効され、日本は占領下を脱し主権を回復する。

 断固統合を拒否した一二三だったが、ただ単に国の横暴に異を唱えるだけでなく、経営者としてやることはやっていたのである。「最大の会社ならずとも最良の会社となれ」。大手金融機関の手の届かぬ中小零細企業者や庶民への資金の提供を。
 老齢に達しなお意気盛んな一二三は「興産一万人」を掲げ、各支店への「お客様行脚」を開始する。

(つづく)
【坂本 晴一郎】

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