2024年04月20日( 土 )

九州古代史を思う(5)

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邪馬台国

 司馬遷の史記にある、「平原広沢を得て、留まり、王となり帰らず」の下りである。この地こそ、“邪馬台国”の始まりだろう。

 冒頭に陳寿は、「昔、百余りの国が在り、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった」とある。徐福がこの地に留まりて王になったとすると、彼が一番恐れたのが始皇帝の“怒り”だっただろう。

kusa 始皇帝は、徐福に不老不死の妙薬の探索を命じながら、50歳でその生涯を終えるが、わずか26歳で斎を滅ぼし天下を統一し、万里の長城を修復増築し完成させ、文字の統一も図った。また、兵馬俑で知られるように、生命に対する執着心が人数倍強い“暴君”だからこそ、彼は始皇帝のその後の動向が気がかりで、追跡を一番恐れただろう。

 そこで徐福は、始皇帝の動向をうかがうために、北路の逆コースで中国に使者と偽って偵察に行かせるのを目的として、始皇帝に攻め込まれないように薬草を献上しつつ、懐柔策をとったと考えられる。

 しかし、いずれにしても自分の平原広沢の場所は絶対に悟られないよう、安易に到達不可能な地だということを吹聴させた。その一方で、自分の国づくりに力を注ぎ、自分自身のためにも薬草を求め、山野を探索したことが、佐賀吉野ヶ里の地に多数点在する。

 中国から海流、季節風に乗って東シナ海を横断し五島列島あたりへたどり着くことは比較的容易だが、逆に日本から中国に行くのはすべてが逆になり、その頃の船では難しいことだっただろう。

 余談までに、「縄文時代」「弥生時代」の名称は、土器の作成方法に由来する。現代では、器をつくる際にろくろを使用するのは当たり前のことだが、古代においては、その工法さえ知らない人々が、縄で形をつくり、内側から粘土を付けて乾かし、火の中に入れて焼く素焼き方法で、器をつくっていた。そうしてできた土器には縄目が残っていたために、これが出土した時代のことを「縄文」と呼んだ。
 一方の弥生時代の「弥生」とは、明治17年に東京本郷の弥生町で発掘された土器が、ろくろを使用してつくられた網目模様がない土器だったので、発掘地にちなんで弥生土器とし、日本考古学上の時代区分として用いられるようになった。

 徐福渡来後、五穀をつくり、百職の職人の手で釜・鎌・衣服・ろくろなど使用し、あたかも一夜にして石器時代からの狩猟民族から、自給自足ができ、1カ所に定住する国が始った。
 後から出発した集団の渡来による増加で、童男女3,000人による自然増加の人口増加にともない、より良い耕作地を求め移動する人たちが出てくるようになり、邪馬台国連合集団が形成されたのであろう。

 稲作で最も重要なものが“水”である。佐賀平野の有明沿岸から筑後川沿いに広がる田園地帯だが、時として水害に遭い、時として日照りなどの天災も含め、水利権は古代より現代に至るまでも、農家に取っては死活問題である。
 ゆえに、“倭国大いに乱れる”――と。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

 
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