2024年04月25日( 木 )

九州古代史を思う~「倭奴国」から「日本国」へ(6)

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「魏志倭人伝」を読み説く(2)

 引き続き、魏志倭人伝を読み説いていきます。

【倭国の風習】
 帯方郡から女王国の国境までは、一万二千里である。
 男は皆、顔と体に大小の入れ墨をしている。
 昔から使者として中国に来る者は、皆、大夫と自称している。
 夏の皇帝の子が、会稽郡に領地をもらったとき、頭髪をそり、体に入れ墨をして蚊竜の害を避けた。
 倭の漁民は好んで水中に潜り魚貝を捕えている。
 入れ墨は大魚や水鳥を避ける呪いだったが、後には少々装身の飾りにもしている。
 諸国の入れ墨は各々異なる、左・右、あるいは大きく、あるいは小さいが、身分の差を表す。
 その距離を計算すると、まさに会稽郡東冶県の東にあたる。

 倭国(の風俗)は淫らではない。
 男子は皆、結髪しており、木綿の布を頭に巻いている。その衣服は横広の布で、ただ体に結びつなげ、ほとんど縫うことはしない。婦人は垂れ髪か結髪にしている。衣服は単衣のように作り、中央をくり抜き、頭を通して着る。

 穀類・稲や麻を植え、蚕を桑で飼って糸を紡ぎ、細やかに織った麻布・絹布を産出する。その他には、牛・馬・虎・豹・羊・カササギはいない。
 武器には、矛・楯・木製の弓を使い、弓は下が短く上が長い。竹の矢に鉄のやじりや、骨のやじりを付ける。習慣などは、現在の広東省の海南島に似ている。

 倭地は温暖にして、冬夏生野菜を食べる、皆徒跣(はだし)なり。屋室あり、父母兄弟、臥息する処を異にする。朱丹をもってその身体を塗る、中国の粉を用うるが如くなり。食欲には高坏を用い、手づかみで食べる。

 その死には、棺はあるけれど棺をいれる箱は無い。土を封じて冢をつくる。始め死するや喪に留まること十余日、当時肉を食せず、喪主は哭泣し他人は就いて歌い舞い飲酒する。埋葬が終われば、家を挙げて水中に行きみそぎを行う、以て(中国の)練沐の如し。

【航海の安全に「持哀」を使う】
 倭の使者が、海を渡り中国に詣るとき、恒に一人をして、頭髪を伸び放題とし、シラミも取らず、衣服垢汚し、肉を食せず婦人に近づかず喪人の如く隔離する。之を名づけて持哀と呼ぶ。もし、行く者吉善なれば、共にその生口と財物とを与え、もし、疾病あるか、暴害に遭わなければ、彼を殺さんと欲す、其れ持哀が行いを謹まなかったからだと。

 倭国の風習では、問題が生じ決断に迫られると、鹿の骨を焼いて吉凶を占う。その宣告は命令の如き権威がある。中国で亀甲を使い火による裂け目をみて兆候を占うように。
その会合の席次には親子、男女の序列は無い。倭人の性質は酒を好む。

 「魏略」によると、倭人は暦による正確な年次・四季を知らない、ただし春耕と秋の収穫を記憶し年数を数えている。
 倭国の大人には4~5人の妻が居り、庶民でも2~3人の妻を持つ者も居る。その妻たちは、淫らではなく嫉妬もしない。また、盗みや争いごとも少ないが、犯すと軽い者は妻子を奴婢にする。重い者は、親族・さらには一族に連帯責任がおよぶ。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

 
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