2024年04月19日( 金 )

「立憲主義を世に示す!」~川内博史衆議院議員 独占インタビュー(前)

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 「憲法を守る」「安保法制は違憲」「原発再稼働には反対」――。主張は明快である。
浪人時代の苦労を乗り越え、国政の場に復帰したこの人の顔は「政治家」と呼ぶに相応しいものになっていた。
 昨年の総選挙で立憲民主党から出馬し、保守王国といわれる鹿児島1区を勝ち抜いた川内博史衆議院議員に話を聞いた。

総選挙を振り返って

 ――川内氏は、1996年に旧民主党の公認で初当選。その後5期連続当選し、2012年の総選挙で落選して、14年も惜敗。5年間、事実上の浪人生活を送ってきた。野党のドタバタはあったものの、激戦の鹿児島1区で見事復活。議員会館の自室で、感慨深げに昨年の選挙を振り返った。

川内 博史 衆議院議員

 川内 希望の党への入党を断り、立憲民主党の旗を掲げてからはこれまで以上に応援の声が高まったのが印象的でした。「応援しているよ」との声とともに痛くなるくらい体をバンバン叩かれました。ありがたかったですね。たしかに厳しい選挙戦でしたが、応援の声が高まる中で「やり抜かねばならない」という気持ちがより強くなっていきました。

 ――衆議院の解散直後、川内氏に希望の党への入党の意思を確認してきたのは、中山成彬衆議院議員だったという。実は議員会館の川内事務所は、その中山議員の部屋の隣にある。

 川内 中山先生はラ・サール高校の先輩ですし、当時は希望の党の公認を得られなければ、厳しい選挙戦になるかもしれない状況でした。しかし、それでも私には踏み絵は踏めなかったということです。安保法案に賛成することができないのは、国民に誓ったことですから、私は小池さんに忠誠を誓うことはできません。逆説的ですが、希望の党のドタバタのおかげで立憲民主党ができたのも事実です。私が希望の党への入党を断り、立憲民主党に合流し、当選した後に「希望の党だったらあなたに投票しなかった」という声を何百人もの方々からいただきました。中山先生からの電話を受けた時、一瞬の判断でしたが、希望の党への入党を断ってよかったと思っています。

 ――昨年の総選挙では、どこに投票したらいいのかわからないという有権者が少なくなかった。そのなかで、大きく議席を伸ばした立憲民主党。川内氏の表情が、引き締まった。

 川内 立憲民主党への期待は大きいと感じています。日本国憲法のことを真剣に考えている方々がこんなにいるのだと改めて思い知らされています。
5年ぶりに国会議員になって、新年会など多くの会合に呼ばれるようになりましたが、企業の経営者の方などから安倍さんは絶対に倒さなければならないという声をたくさん頂いています。実は世の中にそういった空気は満ち溢れているのだと思います。9月には自民党総裁選がありますが、そのような方々はぜひとも声を上げていただいて、安倍総理の続投を阻止していただきたい。

 民進党のなかにも希望の党のなかにも我々と理念を同じくする仲間は少なからずいらっしゃいます。踏み絵を踏んだか否かで我々は排除するつもりはありません。私も中山先生から電話がなければ、希望の党から出馬していたかもしれません。希望の党であろうと立憲民主党であろうと、志さえ同じであれば、一緒にやっていきたいと考えています。

 最初は、憲法や安保法制に対する考え方はこれまでのまま、“小池さんのもとで希望の党と一緒にやっていこう!”と民進党内部もかなり盛り上がっていました。ただ、なぜか途中から風向きが変わったのです。小池さんはメイクドラマしたかったのでしょう。自民党都連や自民党本部という強いものに立ち向かう姿は共感を得て、都議選では見事な勝利を収めました。しかし、総選挙では「排除」や「選別」という言葉を使い、それが弱い者いじめのように見えてしまった。民進党をうまく巻き込んで戦っていれば、大旋風を起こしていたと思います。これには、改めて言葉の重みを感じましたし、大変残念に思いました。

(つづく)

<プロフィール>
川内 博史(かわうち・ひろし)
1961年11月2日生まれ。鹿児島市出身。80年ラ・サール高校、86年早稲田大学政治経済学部を卒業し、大和銀行に入行。96年の衆議院議員総選挙では、民主党公認で鹿児島1区から出馬。比例九州ブロックで初当選した。2017年の総選挙では、立憲民主党から出馬し6選をはたした。その間、衆議院国土交通委員長、文部科学委員長、沖縄北方特別委員長、科学技術特別委員長、政治倫理審査会長などを歴任。

 
(中)

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