2024年03月28日( 木 )

福岡市繁栄の礎築いた元祖デベロッパー、役割終えて「家主」業で生き残る(中)

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太田一族

大丸の出店が足かせに

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 芸術家を目指していた5代清蔵の各種支援活動は精神的・文化的なものが多く福博発展と関連させた4代清蔵の行為とは一線を画する。それでも博多大丸のみはデベロッパー的なこだわりを見せた。

 もともと駅ビルディングの建築は4代清蔵の宿願。銀座松屋で貸しビル業での成功を収めていた4代清蔵は呉服町を博多湾鉄道の起点として計画。起点駅のうえにターミナル百貨店を建築しようというものだ。天神では岩田屋が同スタイルで開業をしていた。着工にこぎつけ、地下部分まで完成させるも戦局の悪化により中断を余儀なくされていた。

 5代はこれを引き継ぎ1953年に開業にこぎつける。当初は銀座で店子である松屋に出店を打診したが、松屋は中洲で営業する百貨店「玉屋」と親しい関係にあったこともあり辞退した。そこで大丸を選択。共同出資して法人を設立し、地上8階建てとして開業。上層2階には帝国ホテルを招致した。

 しかし、出店した時期には呉服町の地理的環境は4代清蔵の時代とは変わってしまっていた。博多駅を結ぶ地下鉄駅は5代清蔵が推す呉服町でなく中洲川端に決定していた。松屋が辞退したのは呉服町の事業性を懸念したことも要因だ。加えて、岩田屋、玉屋とすでに2件存在するエリアに割って入ることについて供給過多が指摘されていた。

 慎重な経営スタイルなであったはずの5代清蔵だが、4代の宿願実現に関する事業については無謀とも思える選択を行った。末弟の清之助氏らはその対処を余儀なくされる。

 これ以後、一族または事業会社で地場財界の求めに応じてまちづくり的な活動をするのは、九州勧業が子会社として設立したホテル日航福岡のみ。同ホテルもブランド力を高める一方で収益化に苦戦。インバウンド景気にも支えられ近年ようやく債務超過を解消した。

 立地などの諸条件を、私情でなく福岡の発展という視点から構想していれば、違ったかたちで出店された可能性が高い。商業ビルディングで成功していれば、その後の福岡開発にも参画していたかもしれない。

経営者育成に失敗

 5代清蔵は、6代清蔵を28歳で東邦生命の監査役に就任させた。これは当時の労組から批判された。経営者感覚をつけさせる意図があったと見られるが、育成しきれないどころか、6代清蔵は資産を食いつぶした。

 5代の経営手法は余計な口出しをしない権限委譲型だったとされる。結果をみれば経営者育成にも口出しせずいたずらに昇進させていったことになる。会社が数千人規模に拡大したなか、一族の経営者にこだわるのであれば、息子の適正の見極めや、親族を見渡し育成することが求められた。

実質博多本家となった東京育ちの辨次郎一族

 4代清蔵の次男、5代清蔵の長弟・辨次郎も修猷館高校、東京大学卒。兄を支えて東邦生命の社長・会長を歴任した。酒の苦手な5代に代わり業界活動に積極的に参画。東邦生命を「社会の公器」と公言し、5代清蔵時代の躍進に大きく寄与した。辨次郎の息子・和郎氏は東京で生まれ育ち、金融機関に勤務していたが、求めに応じて博多に移り、九州勧業を継承。4代清蔵の三男・凱夫氏が甥の和郎氏を呼び寄せ同社を継承させた。和郎氏は、九州勧業と(株)JAL ホテルズ(現・オークラニッコーホテルマネジメント)の共同出資で 1987年に(株)ホテル日航福岡を設立し、初代社長を務めた。なお、現在は和郎氏の子・禎郎氏が九州勧業とホテル日航福岡の社長を務めている。現在の九州勧業は東京の一族が帰福して経営しているといえ、地場デベロッパーとして期待を寄せることは難しいだろう。

若くしての経営参画があだとなった6代清蔵氏

 6代清蔵は4代清蔵から見ると3代目。いわゆる「放蕩3代目」を地で行った。東邦生命の資産5兆円を尽きさせた。1925年生まれ。5代清蔵や辨次郎同様に東大卒。日本発送電に勤務したのち、アメリカに渡りハーバードビジネススクールなどで学んだ。53年、監査役として東邦生命に入社。77年に社長に就任し18年の長期に渡り社長を務めた。子会社を通じての個人会社への迂回融資や外債投資失敗による1,200億円の損失など、バブル崩壊で多額の不良債権発生や投機的な資産運用が表面化して、95年に会社を去った。

 5代清蔵による相互会社化が社長に権限が集中する遠因となった。「腐ったつり橋を渡る」(佐藤守氏)会社への変貌を遂げた辨次郎が社長を譲る際に6代清蔵に向けて東邦生命は私物でないこと、それを忘れると同社が崩壊することを言い含めている。

 この事実は辨次郎の経営者としての力量の高さを示す一方で6代清蔵の人物像を喝破していたことを示す。だとすると、経営者として育成しきらぬまま6代に継承させた責任は辨次郎にもある。

(つづく)
【鹿島 譲二】

 
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