2024年03月29日( 金 )

孫正義氏のビジネスの原点、米ヤフーが消える(前)

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 ネット企業の草分け的存在の米ヤフーは、創業から23年あまりで、その歴史に幕を閉じた。米通信大手のベライゾン・コミュニケーションズは6月13日、米ヤフーの中核事業の買収手続きを完了したと発表した。ヤフーの社名を「アルタバ」に変更し、日本法人のヤフー、中国のアリババ集団の株式を管理する投資会社になる。米メディアが報じた。米ヤフーはソフトバンクグループ(株)の孫正義会長兼社長のビジネスの原点だ。米ヤフーの存在がなければ、今日の孫氏はなかった。

インターネット革命に勝負を賭ける

 孫正義氏は19歳の時、人生50年計画を立てた。
 20代で事業家に名乗り上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ――というプランである。
 高い目標を大々的にぶち上げて自己暗示をかける。彼の人生を貫いてきたやり方だ。
 ライフプランに基づけば、30代は軍資金を稼ぐ時期である。94年7月に株式を店頭公開した。36歳の時だった。
 軍資金を手にした孫氏は次から次へと企業の買収に突き進んでいった。「無茶な投資である」とアナリストから叩かれたが、それこそガンガンやった。しかし、借金まみれとなって銀行から見放された。その結果、株価は暴落。倒産の危機に瀕した。
 この時、神風が吹いた。世界中にインターネット旋風が吹き荒れたのだ。インターネットという新しい時代を航海するには、地図とコンパスが必要だ。孫氏は、インターネット革命の入り口で、これから伸びるであろう会社100社ほどに資本参加することにした。出版部門を買収したコンピュータ関連会社ジフ・サービス社長であるエリック・ヒッポー氏が勧めたのが、インターネットの検索サービスを行なうヤフーだった。

米ヤフーへの投資がネット時代の寵児に押し上げる

 95年、孫氏は部下の井上雅博氏(のち日本法人のヤフー(株)社長)を連れて、カリフォルニア州のシリコンバレーにあるヤフーに出かけた。ヤフーの創業者である台湾出身のジェリー・ヤン氏とデビット・ファイロ氏とも27歳と孫氏よりも11歳も年が若い。半年前まではスタンフォードの大学院生であった。会社ができたばかりで社員が5~6人いる程度だったが、活気に溢れていた。
 孫氏は2人に言った。「ぼくも、きみたちに5%出資させてもらうよ」。さらに続けた。「それから、日本でジョイントベンチャーをやろう」。
 米ヤフーが実現するであろうインターネットビジネスの輝かしい未来を孫氏は信じ、青田買いしたのである。当初、2億円を出資した。この投資で孫氏は金鉱を掘り当てた。米ヤフーの成功がソフトバンクのスプリングボード(飛躍板)となった。39歳でヤフーの日本法人のヤフー(株)を設立した。米ヤフーに115億円追加出資して筆頭株主となる。
 孫氏が予想した通りIT(情報技術)時代が到来した。米ヤフーの株価は一時、3兆円の含み益を生むまでに跳ね上がった。2000年2月15日、ソフトバンクの株価は19万8,000円の史上最高値をつけた。時価総額は21兆円を超え、トヨタ自動車を抜いて日本一となった。ITバブルの崩壊で、株価は10分1に暴落した。孫正義氏をIT時代の寵児に押し上げたのは、インターネット革命に賭けた米ヤフーに対する投資だった。孫氏のビジネス人生は、米ヤフーとジェリー・ヤン氏抜きには語れないほど大きな意味をもっている。

60歳で事業を後継者に譲る計画を反古に

 40歳代は1兆円、2兆円の規模の勝負だ。ブロードバンド事業に勝負を賭けた。日本を高速・大容量のデータ通信を実現するブロードバンドの先進国にするためだ。40歳代のもう1つの大勝負がモバイル(携帯電話)事業である。2006年4月にボーダフォン日本法人(現・ソフトバンクモバイル(株))を2兆円で買収した。国内史上最大の買収である。49歳だった。
 50歳代は事業を完成させる時期だ。2013年、米国第3位の携帯電話会社スプリント・ネクストルを1兆8,000億円で買収。世界第3位の携帯電話グループが誕生した。この時、孫氏は56歳である。何度も危機に陥ったが、そのたびに凌いできた。そして、今では通信業界の押しも押されもしない巨人となった。
 そして、人生シナリオに従えば、60歳代で後継者に事業を引き継ぐはずだった。孫氏は14年に米グーグルからニケシュ・アローラ氏を後継者として迎え入れた。果して、アローラ氏にバトンタッチするだろうか。筆者は首を傾げたものだ。60歳あるいは65歳で経営を退くと公言してきた創業者が公約を取り消して続投してきたことを目にしてきたからだ。昨年の株主総会で孫氏は60歳を機に社長を退くとしていた方針を翻し、後継指名していたアローラ副社長が退任した。創業者は生涯現役が業だ。驚きはなかった。

(つづく)

 
(後)

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