「世界の皆さま、南相馬市へのご支援をよろしくお願いします」――福島第一原発事故直後、動画サイトを通じて世界にこう訴えた福島県南相馬市長の桜井勝延氏。あれから1年以上が経ったが、いまだに国家主導の復興は道半ばだ。市民が放射能という見えない恐怖と戦うなか、度重なる過酷な決断を強いられてきた桜井市長は今、胸の内にどのような思いを秘めているのか。また、ここまで自身を支えてきた力の原点とは。
<変わらない自分の原点>
私個人の生き方という観点からすれば、私はお金とは無縁の生き方を選びました。私は宮沢賢治と同じ大学を卒業しましたが、同じ農学部農学科を出たにしても、農業指導者として県なり国なりの機関に入っていくという選択もあったでしょう。民間の研究機関に入るという生き方もあったでしょう。
そうした選択をせず、26年間、農業の現場で働き続けて、そのなかで借金を抱えたり、それを返したり、現場で働きながら幸福感や商売に対する見通しのなさへの憂いなど、農業の現状を直接この目で見てきました。私が「変えなきゃいけない」と思った原点は、現場にいればいるほど自然と強くなってきた思いです。
大いなる使命感で政治の世界に入ったというよりは、そこに入ったからこそ自分も強くなったような気がします。この世界に入るきっかけとなった産廃処分場問題にしても、私たちは安全なお米をつくりたいという一心でした。東京や大阪に産直でお米を売っていましたし、きれいな水のきれいな田畑で農薬を使わず栽培してきたという自負を持って販売してきました。そういうことがすべて否定されるような産廃処分場がつくられるのは許せませんでしたし、我々に知らされずに計画が進められてきたこともおかしいのではないかという思いから、「産廃から命と環境を守る市民の会」を立ち上げました。
活動を通じて、行政の在り方も農業の現場とはまったく違って、何かおかしなことになっているという疑念が大きくなっていきました。市なり、県なりが行政の情報開示をしていると、おかしなことが少しずつ見えてくるわけです。一方で、私に対して「そういう疑問を持つこと自体がおかしいんじゃないか」という人たちも出てきました。
でも、やはり「変えなきゃいけない」という原点は変わらないです。原発事故が起きたにしても、自分らしく生きたいという思いの方が強いので、他人からいくら揶揄されようとも、自分に対する回答だけを常に求め探しています。人に対する回答はいくらでも言い訳できますが、自分へのそれは言い訳できませんから。
国の官僚や閣僚の人たちとのつながりは、現場で農業をやっていた者の感覚からすると、1万倍くらいのスピートで形成された感があります。だからといって、自分がそれだけ成長したかというと、まったくそういうことはありません。自分の選んだ生き方をずっと考えてくると、人とつながる時間、人とつながることで見えてくる違う世界、これらが農業の現場にいたときと若干違うだけです。
繰り返しますが、自分の思いが180度変わるということは今までありませんでしたし、今後も自分の知らない世界を教えてもらえることはあっても、自分の思いや生き方が変わることはないでしょうね。
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<プロフィール>
桜井 勝延(さくらい かつのぶ)
1956年生まれ。福島県南相馬市出身。岩手大学農学部を卒業後、酪農に従事。2003年3月4日から10年1月10日まで南相馬市議会議員を2期務める。同年1月29日から南相馬市長。You Tubeで東日本大震災に見舞われた同市の被災状況を訴え、米タイム誌から「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた。
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