<第六章 谷本頭取の時代>
クーデター未遂事件(39)
笹川常務は谷本専務が即諾するものと思っていたが、谷本は笹川が提示した条件を一つ一つ確認しているかのように目を瞑ったまま、すぐには返事をしなかった。ほんの一瞬の間であったが応接室にはピーンと張り詰めた空気が漂った。
笹川は固唾を呑んで谷本の口元を見つめていた。
おもむろに目を開いた谷本は、
「笹川常務、ご提案された条件をお受けします。有難うございました」
と、笹川に向かって深く礼をした。
笹川も、
「お引き受け頂いて、有難うございました」
と、言うのが精一杯であった。笹川はこれでやっと使者としての役割を果たしたと安堵の表情を浮かべた。
お互いの心の中に残っていた緊張感は、谷本の「提案された条件をお受けします」との言葉によって弾け、二人の間に笑みがこぼれるようになっていった。
暫くして谷本が、
「私が頭取をお引き受けした後の役員の人事について、とやかく言える立場ではないと思うが、ご参考までに何か構想をお持ちであれば聞かせてもらえないですか」
と、笹川の顔色を窺うように聞いた。笹川は、
「今日のところは、谷本専務に頭取をお引き受けしてもらうということで参りましたので、他の役員については今後考えることになろうと思います。今のところまだ具体的人事については、植木頭取から伺っていません」
と、答えた。
すると谷本は、
「それは良かった。実は竹下常務のことなんだが、彼は女性問題が表面化し任期途中の退任を迫られるのではないかと心配している。そうはいっても当行にとって有能な人材であり、ぜひ役員としてそのまま残しておいてもらいたいと植木頭取に伝えてほしい」
と、笹川の顔を覗き込むようにして言った。
今回の無血クーデターを成功に導く原動力となった竹下を庇う配慮を忘れてはいなかった。
笹川は、
「植木頭取が後継者に谷本専務を指名し、谷本専務はそれを引き受けた。維新銀行の頭取交代は順当なものであり、次期頭取のご要望について植木頭取も配慮すると思います」
と、間接的な言い回しで、植木の了承を得ることを約した。
最後に笹川は、
「今日の提案した内容を文章などに残すことはしませんが、お互い紳士協定で円満に解決したということでよろしいですね」
と念を押すと、谷本は大きく頷いた。
笹川と谷本との交渉は僅か1時間半で妥結したが、谷本はクーデターを実行することなく、未遂で頭取の座を射止めることに成功した。実際は薄氷を踏む勝利であった。もし植木が前立腺がんにならなければ、また植木が最後の力を振り絞って谷本が仕掛けたクーデター劇に正面から立ち向かってきたならば、谷本頭取の誕生はなかったかもしれなかった。
この経験が12年後に展開する「谷野頭取交代劇」(クーデター)の予行練習になろうとは、谷本自身も思わなかったに違いない。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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