<第六章 谷本頭取の時代>
クーデター未遂事件(32)
笹川は10時前に自宅を出たが、いつもは混雑する国道も土曜日のためか普段より車は少なく、約束した10時30分よりも15分早く到着した。植木の駐車場は邸宅内の一角にあるが、玄関までは広い庭が続いており、笹川は車のなかで暫く時間調整することにした。
10時半少し前に車を降りた笹川は、玄関まで続く庭木に囲まれた小道を歩き玄関のチャイムを鳴らした。植木の妻は、
「どうぞお入り下さい。お休みのところご苦労様です」
と、にこやかに声を掛けながら戸を開けた。笹川は、
「お早うございます」
と挨拶を交わしながら、右奥にある応接室に向かった。既に植木が椅子に座って、愛飲のラークを燻らせて笹川が来るのを待っていた。
笹川は、
「お早うございます」
と、改めて挨拶をしながら、
「頭取、煙草は体に障るのではないですか。くれぐれもお体を大切にして下さいね」
と、柔らかな言葉遣いのなかに植木の健康を案じる笹川の心情が籠っていた。
植木は心配する女房役の笹川の顔を見ながら、「うん、わかっている。今は以前と比べると随分本数を減らしたんだ。煙草が吸えるようになったのは、回復に向かっている証拠かもしれんよ」
と、はにかむような仕草で答えた。
続けて、
「昨日は東京と海峡市の日帰りで大変だったね。ご苦労さんでした。ところで昨日の話だが、谷本君が退任を断って来たというのは聞いたが、その理由について詳しく話してもらえないかね」
と、言った。
笹川は昨日谷本と話し合った内容を、植木にありのままに報告した。谷本が退任しない理由に挙げたのは、昨年の株主総会で承認されており、任期途中で辞めるわけにはいかないということだった。
植木は、
「谷本君は1971年から今年まで21年間も取締役として在任しており、3年目や5年目の任期途中での退任要請と違うというのがわからないのか。
もともと組合対策のために、当時の絹田頭取から見込まれて入行し今の地位を得たのであって、決して営業面で実績がある人物ではないよ。定期証書偽造事件の時は、取締役東南支店長で地区の統括責任者であったにも拘わらず監督責任を問われなかったし、3年前の営業本部長の時もノンバンク融資を積極的に推進し、多額の不良債権を発生させた張本人ではなかったのか。
彼は今まで何らの責任を取った形跡はないよ。それも忘れて今になって何をいうのかね」
と、笹川の顔を見ながら腹立たしそうに言った。
笹川の話を聞いて植木が腹に据えかねたのは、谷本の退任に反対する役員の過半数を味方につけて頭取職の「禅譲」を求めて来たことだった。
植木は、
「谷本君の盗人猛々しいにも程があるね」
と、ポツリと呟いた。
「この作品はフィクションであり、登場する企業、団体、人物設定等については特定したものでありません」
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