2024年04月24日( 水 )

九州古代史を思う~「倭奴国」から「日本国」へ(10)

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「都督府」と「大宰府政庁」

 太宰府市に現存する、しかも横並びに両立している2つの遺跡。近畿天皇家の出先機関である「都督府」「政庁」として扱われていますが、古事記・日本書紀に「都督」「政庁」としてこの記述がありますか。答えは“NO”です。
 しかし、大宰府遺構に新たな発掘物が出たとしても「近畿大和政庁の出先機関である大宰府の何処どこで」と報道される。

 「都督」とは、前回までに述べましたように中国の臣下としての官位で、皇帝から賜った中国より東方(朝鮮半島を含む倭国)の軍事長官で、政治を司る役職です、故に政務を行う建物が必要になってきます。
 宋書に出てくる倭国の五王が、紛争を凌ぎ、守り続けた倭国。五王の1人、「武」は中国の官位で「開府儀同三司」の名も持っていました。「三司」とは「都督」より上の官位で、中国でも一握りの諸王にだけに許されない物で「太宰の帥」も入ります。「開府」とは、もちろん行政を行う府を開くことができるということを意味します。
 さて、役職名が揃いましたね。「都督」がいる「都督府」、都督が政治・軍事を行う政所「大宰府政庁」。どうでしょうか。これで現存するすべての古墳・遺跡などが合致しました。
 大宰府政庁跡、都督府跡、観世音寺、五条近郊の遺跡物など、太宰府にはまだまだ古代の記録が数多く眠っていることでしょう。

(つづく)

【古代九州史家 黒木 善弘】

 
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