2024年04月25日( 木 )

災害危機管理への提言 1982年長崎大水害を体験して(中)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 いよいよ梅雨本番、これからの時期は梅雨前線の状況によっては一夜にして大洪水を巻き起こすような集中豪雨も降る、水難の季節である。脊振山系を写した美しいフォトエッセイを連載していただいている脊振の自然を愛する会代表・池田友行氏は、かつて1982年の長崎大水害を体験されている。その貴重な経験を語っていただいた。

 翌早朝、諫早方面から徒歩で隣のサービスセンターまでやってきたサービスマンがいた。隣から漏れ聞こえる声は「途中、何人もの遺体を見た」と語っている。街の中は水害で浸水しただけであるが、東長崎方面は土砂くずれで多くの犠牲者が出ていたのである。
 倉庫の電動シャッターは降ろしかけたところで停電になり、床から80センチを残して途中で止まっていた。倉庫の責任者は隣の団地に住んでいるK君であった。商品の盗難を心配して営業所に詰めていた。また翌朝は、朝食のおにぎりを彼の奥さんから頂いた。

 彼と早朝の卸団地を見て回った、乗用車が5台ほど、側溝にぺしゃんこになって重なっていた。「こりゃー大事ばい」といいながら、国道へ出てみた。なんと昨日まであった国道がなくなっているではないか。それは諫早から日見トンネルに繋がっている国道34号である。今では芒塚付近もバイパスとなって立派になっているが、当時は日見トンネルを越えて蛍茶屋に出る唯一の国道だった。聞いた話だが、豪雨の中、無理して帰宅を急いだ会社員の婚約者同士がこの崩落した国道に落ちて亡くなったとか。
 早朝5時すぎ、残りのセールスM君から連絡が入った。ボランティアで土砂崩れの復旧作業を手伝っていたとか。まず、第一に自分の安否情報を伝えるのが一番だと思うのだが、彼はユニークな人間で組織の秩序など毛頭ないタイプ。雲の上を歩いているような性格で、その後退職していった。
 そのうち卸団地の予備電源も切れたのか、電話も不通になってしまった。

ポータブルビデオデッキSL-F1 デッキはA4サイズで当時としては画期的なモデル。価格 199,000円

 2日目は営業所の裏手の山の集落に住んでいる、女性社員の安否確認に行った。
 土砂崩れの沢沿いの道を左右に歩いて彼女の自宅を訪ねる。彼女の父親が『ご飯を炊くから待って』と、雨樋から貯めた水でご飯を炊いてくれた。ご飯ができ上がって彼女も営業所まで皆の顔を見に付いてきた。そして彼女は生まれ育った山道を一人で歩いて帰って行った。作り立てのオニギリは美味かった。
 報道関係は長崎の街並ばかり中継をしていて、被害甚大の東長崎の報道は全くなかった。
 道路がないので当たり前のことなのかも知れない。

 私は、これらの現状を記録する大切さを感じた。発売まもないポータブルビデオデッキSL-F1とカメラHVC-F1を倉庫から取り出し、自分の車のバッテリーで30分ほど充電をして営業所を飛び出した。矢上の商店のシャッターは水圧でめくれあがり、横断陸橋付近はバスが流木の間に挟まっていた。その光景などカメラを必死に廻し、マイクに向かってしゃべりながら撮影して回った。予備のバッテリーはないので、バッテリーが切れないことを祈るばかりであった。
 自動車が運転手を載せたまま流れていった、バスが人を載せたまま流れだしたなど、いろんな話を聞くことができた。このバスの運転手は機転を効かせて運転席の窓ガラスを割り、それを横断歩道の上から公民館のカーテンをロープ代わりに降ろしてくれた人達が乗客を救出したのだという。他にもブルドーザーも濁流に流されていった、などなど、生々しいことばかりであった。
 この撮影したビデオは仕事で出入りしていたテレビ長崎(KTN)担当者にはうまく届かず、撮影したビデオは翌年水害1周年番組で放映され、私も生出演した。

ビデオカメラ HVC-F1 価格 220,000円

 3日目は2日間も降り続いた雨も上がったので、営業所からの脱出を決意した。女性には、隣のK君の奥さんのズボンを借りてこさせ、男女5人で営業所を後にした。どこから抜けようかと思案していたが、矢上上方まで来ると下方の旧長崎街道が通行できるのが確認できた。旧長崎街道を歩いて日見トンネルまで来ると、トンネル付近は崖から何とか転落をまぬがれた車や、トンネル内で立ち往生している車など数台があった。
 トンネルを抜けると救援活動に来た多くの自衛隊員がスコップでヘドロを掻いていた。そんな光景を見ながら、やっと蛍茶屋近くのソニーストアに辿りついた。そこの奥さんが目玉焼きを作ってくれた。ありがたい、3日ぶりのまともな食事であった。今でも、この心づくしのもてなしは忘れられない。
 その後、女性社員はタクシーで自宅へ帰らせ、私は福岡本社から救援に来ている浜の町のソニーショップへ向かった。そこで三日振りに所長と対面した。私は脱出時に所長の野球のユニホームを借用していたので、そのことを詫びた。

 ここから、長崎は復興に向かうのである。

(つづく)

 
(前)
(後)

関連キーワード

関連記事