2024年05月05日( 日 )

災害危機管理への提言 1982年長崎大水害を体験して(後)

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 いよいよ梅雨本番、これからの時期は梅雨前線の状況によっては一夜にして大洪水を巻き起こすような集中豪雨も降る、水難の季節である。脊振山系を写した美しいフォトエッセイを連載していただいている脊振の自然を愛する会代表・池田友行氏は、かつて1982年の長崎大水害を体験されている。その貴重な経験を語っていただいた。

 まず、電気店にあった大量のウォークマンをたらいに沈めて水道水で洗う。テレビや他の電気製品も取り敢えず水道水で水洗いし乾燥させた。
 全国のサービスマンは長崎に招集され、サービス作業に当たっていたが、現状の仕事としては電気製品を水洗いして、高温ジェットボイラーで乾燥させるしかないのである。NHKが音頭をとって、高台にある瓊浦高等学校に各メーカーのサービスセンターを設けたが、毎日、盗難を恐れて修理品を出し入れしていた。これでは効率が悪い、私は自宅付近の長与町商店街ビルの1階が空いているのを見つけた。ここをソニーの拠点としようとサービスマネジャーに提案したのである。ここは水が豊富に使え、ジェットボイラーでの乾燥作業の効率を高めることができた。

 営業所はしばらく使えないので、ソニーショップ店を営業拠点として借用することになる。
 全国から若い入社間もない社員が応援にきてくれた。
 いち早く救援物資の大型トラックを大阪から送り込んだのは松下電器であった、電池から日用品までも、あらゆるものが運ばれてきた。ソニーは自家用ジェット機を所有していたが、これは長崎へは飛んで来なかったのである。
 この時程、危機管理の重要性を感じた事はなかった。

 街中は、壊れかけた眼鏡橋やヘドロで埋まった店舗などが多く見られた。眼鏡橋近くの家屋の屋根でアヒル数羽が羽ばたきをしていた、アヒルも難を逃れたのである。

 私は昭和53年、54年の福岡大渇水を体験し水のありがたさを知っていたのだが、水害後もヘドロで埋まった家屋や衣服などを洗うのにも大量の水が必要だった。水の有り難みをつくづく思い知らされた長崎大水害だったのである。

 長崎市内の死者・行方不明者299名のうち、およそ9割にあたる262名が土石流や崖崩れによるものであった。最後の行方不明者発見は三川内のダムの吸水口から発見された高校生で、その年の夏休み終了前のことだった。
 降り始めから24時間の雨量は長崎海洋気象台で527mmを観測した。長崎市の北に位置する西彼杵郡長与町では23日午後8時までの1時間に187mmの雨量を観測。これは日本における時間雨量の歴代最高記録となっている。

 これが私の長崎大水害での体験である。

 災害を体験して、災害マニュアルの必要性を感じている
 阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震と大きな地震が起きているが、その度、震災後の救援活動は十分進化しているとはいえない。

(了)

<災害6大原則の提案>
(1)人命の把握と迅速な救助活動
(2)水と食糧、最低限の生活物資の確保
(3)電気やガスが無くても、煮炊きが出来るサバイバル技術の養成
(4)トイレの確保、衛生管理
(5)救援物資の送り手と受け取り手の連携、救援部資を如何に被害者に早く分配するか現地の組織力とリーダーシップを発揮できるリーダーの存在。
(5)災害救助、復興マニュアルの作成(体験者から情報収集)

 
(中)

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