2024年03月29日( 金 )

日中「草の根外交」新時代の予感!(中)

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元中国留学生後援協会 会長
(株)ヤオハル 会長 五十嵐 勝 氏

日中文教協会船橋寮の留学生が八百春で買い出しを

 ――順風満帆の「八百春」経営者であった五十嵐さんが、中国人留学生の支援に、文字通り“のめり込んでいく”きっかけはどこにありましたか。

 五十嵐 当時、特別に中国への関心があったわけではありません。学校で「中国は眠れる獅子である」と教わったことが記憶に残っていた程度でした。大きなきっかけは、船橋市夏見台の「八百春」から目と鼻の先に、当時「日中文教協会」船橋寮という100人前後の留学生の泊まれる施設があり、その彼らが「食材」を求めて八百春に買い出しに来ていたことです。

 最初は、彼らの対応にとても難儀しました。それは驚くことに、毎回必ずついている定価に対して、「高いからまけろ」と値切ってきたからです。「50円のものを30円」「100円のものを50円」にまけろと言ってくるのです。こちらも、仕入れ値があり、まけたら利益が出なくなってしまうので、とんでもないことを言う連中だと思いました。そして、どうしたら彼らから儲けられるから考えたのです。その結果、彼らが来る時間帯(午後3時~午後5時ごろ)を狙って、定価を書き換える対策を思いつきました。まけても同じ利益が出るようにしたのです。

 しかし間もなく、何となくそのような行為をしている自分自身が、後ろめたくなってきました。なぜならば、まけてあげたとき(書き換えているのでまけても定価)、何の疑いもなく、私に心から感謝している彼らの様子を見てしまったからです。

 私の母の実家はお寺です。当時としては珍しくありませんが、小学校の担任も中学の担任もお坊さんだったので、私には“仏心”がすでに芽生えていたのかもしれません。だんだん申しわけない気持ちになって、価格の操作はそれほど時間が経たないうちに止めることにしました。

個人の努力ではそのギャップを埋めることは不可能

 同時に、彼ら中国人留学生に、とても興味を抱くようになりました。中国人留学生といっても、当時は日本留学に対しては、希望者約2万人に1人という狭き門の時代です。たとえ入国がかなったとしても、国内には縁故者や知人がいない者がほとんどだったのです。

 当時の「日中文教協会」船橋寮には、約80人の留学生がいました。そのうち3分の2が中国の新しい国家建設のために政府から派遣された国費留学生で、残りが私費留学生でした。国費留学生の1カ月の中国政府からの支給額は、わずか8万円。寮費が約1万5,000円だったので、残りの6万5,000円で食費など生活のすべてを補うのです。日本留学に際して、中国でたとえ来日前に3年、5年とコツコツとお金を貯めていたとしても、物価レベルがまったく違うので、日本に来ればたちまちのうちに消えてなくなりました。当時の日本と中国の経済環境が大きく異なり、個人の努力ではそのギャップを埋めることは不可能だったのです。
 とにかく留学生たちは皆、ギリギリの慎ましい暮らしを強いられていました。

私自身の心も和み、癒されていたのだと思います

 そのことがわかった後は、価格は元の50円、100円に戻し、求めに応じて値引きもできるだけするようにしました。そうすると、中国人特有の口コミネットワークで寮に住んでいる者はもちろん、その友人や知人を含めてどんどん買いに来る学生が増えていきました。

 ときには餃子2,000個を用意した餃子パーティなど、「私たちが中国式料理でおもてなしをしますので、食材を提供してください」という提案もありました。そのときは留学生だけでなく、私の友人、知人なども集合し、彼らと一緒に会食しました。残り物が中心で、とくに豪華な食事というわけではないのですが、遠く離れた異国での留学生仲間や日本人との語らいは、彼らの心をとても和ませ、癒されたと聞いています。

 同時に、褒めてくれる、おだててくれる、からではありませんが、実は私自身の心も和み、癒されていたのだと思います。その後、「八百春」の2Fに「留学生のためのクラブ」を開設。また彼らの日常に関する数々の便宜を、仕事より優先して図ってあげたりして、「日中友好」にどんどんのめり込んでいきました。

 当然、家内は怒るし、お金はなくなるし、商売には大きな影響が出て、正直なところ家族との葛藤は大変なものがありました。円満であった家庭も円満でなくなりました。加えて、八百屋の仕事は何日か休んでしまうとキャッチアップがうまくいかなくなります。そうすると、今度は、余計に面倒くさくなって、いけないとは思いながら、文句を言われるより、褒めてくれる、おだててくれる方になびいてしまったのです。

(つづく)

【金木 亮憲】

<プロフィール>
五十嵐 勝(いがらし・まさる)
 1942年、福島県会津市生まれ。85年ごろから2000年代前半まで、中国人留学生約4,000人の面倒を看た。89年、第1回「倉石賞」(日中学院 倉石武四郎先生記念基金)を夫妻で受賞。中国の大学および日本語学校で使用する日本語学習書『新編日語』(上海外語教育出版社)の第16課のタイトルは「五十嵐勝さん」である。また『中外名人辞典』(中国の紳士録と言われる)に、日本人として唯一人載る。
 訪中は200回を超え「中南海」に行き、「迎賓館」にも宿泊した。民間人として、胡耀邦(第3代中国共産党中央委員会主席)、孫平化(第3代中日友好協会会長、日中国交回復に尽力、)、唐 家璇(元外相・国務委員)、武大偉(元外務次官・駐日大使)、鄧穎超(周恩来夫人、第4代全国政治協商会議主席)、王光美(劉少奇夫人、元全国政治協商会議常務委員)など多くの中国要人と面会した。

 
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