2024年04月19日( 金 )

先送りを続ける東芝経営陣 今必要なのは土光氏の決断力だ(前)

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 あまりの体たらくに、いい加減にしろと言いたくなる。(株)東芝は、半導体子会社東芝メモリ(株)の売却先の決定を先送りした。上場廃止の瀬戸際に立たされているというのに、先送りを繰り返して決められない。経営陣が決断できないのは東芝の体質だ。今、東芝に必要なのは、東芝を再建させた土光敏夫氏の決断力ではないか。

社員は3倍、役員は10倍働け、私はそれ以上働く

〈東芝改革には一切の遠慮と妥協を断ち切った。それを象徴するのが“岩下御殿”の打ちこわし作業だった。「ガーン、ガーン、バリバリ……」と、耳をつんざく社長室解体工事の大騒音がぬるま湯体質の東芝の風土を粉砕した。〉

 榊原博行氏による評伝『第四代経団連会長 土光敏夫氏』(日本工業新聞社編『決断力(上)』収録)は、東芝に乗り込んだ土光氏の初仕事をこう描いた。以下、評伝を要約する。

 「どうしても東芝の社長を引き受けて欲しい」。土光氏が生涯の師と仰ぐ経団連会長で東京芝浦電気(現・東芝)会長の石坂泰三氏から、東芝の再建を頼まれたのは1965年5月。石川島播磨重工業(現・IHI)を日本一の造船所にした土光氏の合理的経営を高く評価していた。

 石坂氏が土光氏に再建を托したのは、東芝の深刻な経営危機にあった。その根本原因は企業体質に根ざしていた。社長の岩下文雄氏は、社長専用の浴室、トイレ、それに隣室に調理場と専属コックを置いた。トップが華美に溺れると、組織は頭から腐る。石坂氏は岩下氏の更迭を決断した。

 土光氏は再建社長を引き受けた。その時、68歳。しかし、土光氏を迎える東芝の役員室は冷ややかなものだった。誰も口をきかない。それでも一度やると引き受けた以上、とことんやり抜くのが、土光氏の真骨頂だ。社長就任して初の取締役会で、役員たちを一喝した言葉は、今では語り草になっている。

 「社員諸君には、これまでの3倍働いてもらう。役員は10倍働け。私はそれ以上働く」
当時の重役クラスは朝10時ごろ出勤し、夜は銀座で接待を受けるのが当たり前の風潮があった。そんなだらけた雰囲気を一掃し、先陣を切って働くと宣言したのである。

 東芝改革の第一弾が、豪華な社長室を解体することだった。

モーレツ経営者に悲鳴を上げた東芝のエリートたち

 公約通り、土光氏は率先垂範して10倍以上働いた。ゴルフもやらず、料亭も大嫌い。朝早くから夜遅くまで、無駄な時間を過ごすことはなかった。これに真っ先に悲鳴をあげたのが役員たちだ。それまで午前10時に出勤していた役員のなかには、わざわざホテルに泊まって、早朝出勤する役員もあらわれ、“土光哀史”と皮肉られた。

 「会社で働くなら知恵を出せ。知恵のないものは汗を出せ。汗も出ないものは静かに去って行け」

 元祖モーレツ人間である土光氏は、部下に会社人間になることを求めた。部長クラスに対するしごきはすさまじかった。無理難題と思われることでも要求し、できなければ口汚くののしった。今なら、パワハラとして問題になりかねないところだ。

〈「何だ、これしきのことが、まだできないのか。そんなに役立たずなら、もう死んでしまっていい……」。これには“殿様気風”の強い東芝マンは誰もが落ち込んでしまう。気の弱い管理職が次々とノイローゼにかかったのも無理はない。〉(前出の評伝)

(つづく)
【森村 和男】

 
(後)

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