2024年04月27日( 土 )

生きていれば今年100歳となったはずの故ケネディ大統領の夢(後編)

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 NetIB-Newsでは、「未来トレンド分析シリーズ」の連載でもお馴染みの国際政治経済学者の浜田和幸氏のメルマガ「浜田和幸の世界最新トレンドとビジネスチャンス」から、一部を抜粋して紹介する。今回は、6月9日付の記事を紹介する。


 思い起こせば、ケネディ大統領が就任宣誓を行ったのは1961年の1月のことであった。そして同年、CIAが深く関与したキューバへの侵攻計画「ベイ・オブ・ピッグズ」が明らかとなり、CIAがその責任を問われることになった。計画に関与したCIAや米軍の幹部からすれば、アメリカの裏庭と言われるキューバにカストロ政権が誕生したことはゆゆしい事態であり、この共産革命家を力づくで排除しようとしたことも当然であろう。

 そのため、キューバからアメリカに逃れてきた政治難民たちを訓練し、キューバへの侵攻計画を進めたのがCIAであった。しかし、ケネディ大統領はこの計画を知るや、その中止を強く求めたのである。なぜなら、ケネディ大統領はカストロ議長との話し合いの可能性に賭けていたからだ。

 その結果、CIAも米軍も、そしてキューバからの逃亡者たちもケネディ大統領を激しく非難し、ケネディ大統領の意向を無視してキューバ侵攻計画を強引に進めることになった。実は2000年に公表されたアメリカの機密文書によって、CIAはソ連がキューバ侵攻の1週間以上前に、その情報を掴んでおり、その情報をカストロに伝えたことが明らかになっている。

 ところが、そうした動きをCIAは掴んでいながら、ケネディ大統領に報告していなかったのである。なぜ、CIAはそのような行動をとったのか。考えられることは、キューバ侵攻計画が失敗したことの責任をケネディ大統領に負わせるためと考えざるを得ないだろう。こうした事態を受け、不信を募らせたケネディ大統領はCIAのアレン・ダレス長官を解任した。

 皮肉なことに、ケネディの怒りを買ったがダレス長官は、その後、ケネディ大統領暗殺事件究明委員会(通称「ウォーレン委員会」)のメンバーになり、ケネディ暗殺の真相解明の責任者になったのである。しかも、ダレス前長官の補佐官を務めていたのがチャールズ・カベル将軍であったが、彼の弟であるアーリー・カベルはケネディ大統領が暗殺された当日、ダラス市の市長として大統領に同行していたのである。

 こうした一連の不可思議な動きから推察されるのが、自分たちが仕えるべき大統領の足を陰で引っ張る、もしくは大統領を陥れる、そのような動きをする政府内の反政府勢力が軍事、外交両面において、破壊工作を続けていたという悲しいばかりの現実であろう。

 1961年、ケネディ大統領は、米軍がベルリンや東南アジアで核兵器の使用許可を求めた時点で、断固として拒否したのであった。軍の幹部たちとの話し合いの場から出てきたケネディ大統領は、大きな声で、天に向かって、腕を振り回しながら、次のように叫んだことが記録に残っている。「あいつらは、気が狂っている」と。

 要するに、平和志向の強いケネディ大統領は、1962年に発生したキューバ・ミサイル危機に際しても、キューバに対し、空爆や上陸作戦を展開しないように指示を出したのであるが、そうした発想や行動は首尾一貫していたわけである。後に彼は親しい友人であったジョン・K・ガルブレイスに対し、「キューバへの軍事侵攻など、これっぽっちも考えたことはなかった」と心情を吐露している。

 その後、1963年6月、ケネディ大統領はワシントンにあるアメリカン大学で衝撃的な演説を行った。それは、「世界から核兵器を全廃する」と宣言し、そして「冷戦を終わらせ、それまでアメリカが軍事力によって追求してきたパックス・アメリカーナ(アメリカ至上主義)を終えよう」と訴えるものだった。まさに、画期的ともいえる、完全な軍縮と平和のための新たな提案であった。

※続きは6月2日のメルマガ版「世界最新トレンドとビジネスチャンス」第67回「生きていれば今年100歳となったはずの故ケネディ大統領の夢(後編)」で


著者:浜田和幸
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