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天国と地獄の狭間~新興デベロッパーの倒産から再出発までの600日の記録 (150)
経済小説
2011年5月18日 07:00

 終戦は、今村大将にとってもショックだったが、そこで無気力にはならなかった。
 今村大将は、大本営の指示によりラバウルの陸海軍を代表してオーストラリア軍に対して降伏した。その後の今村大将が自らに課した使命は、10万人の兵隊をひとり残さず日本に返すことであった。そして最大の懸念は、戦勝という至高の目標を失ったことで、軍という組織が緊張感を失い自壊していくことであった。

野菜の種をたくさん抱えてマヌス島に... そこで今村大将は虚脱状態に陥る将校団に対して、少しなりとも将来の日本の戦争賠償にプラスとなることを目指して引き続き自活していくことを訓令し、本国に帰って復興の手助けができるようにと兵隊に技術教育を行なうことで軍団のモチベーションを維持した。兵隊には中学卒業程度の知識を身に付けさせることを目標として、教師役ができる下士官、応召兵などを募り、教科書も手作りして教育を行なった。国内の劣悪な食糧事情を聞いていたので、帰国船が来るようになってからは現地で生産した食糧や農耕具を出来る限りたくさん持ち帰らせた。

 終戦後、連合軍は戦犯の処罰を進めようとするが、当初、ラバウルで今村軍の降伏を受け入れた豪軍のイーサー中将は司令部に対し「ラバウル方面には戦犯というほどのものはなし」という報告を送っていた。今村大将は、非常に軍紀にうるさい人であり、捕虜に対しては国際法に沿った処置をしていたので実際、問題はなかった。ところが本国が厳しく戦犯の処罰を訓令してきたので、豪軍はラバウルにいた中国人やインドネシア人の労務者をそそのかしてあることないことを密告させ、無実の罪で「戦犯」を捕らえ裁判を始めたのである。
 今村大将は責任者である自分を裁く前に末端の部下の将兵を裁いていることに強く憤り、豪側司令官に何度も善処を申し入れた。進んで部下の裁判の証言台にも立った。それでも避けられず処刑されようとする将兵には、仏教およびキリスト教の信仰に入ることを奨め、心身の安寧を図った。

 今村大将自身はラバウルの戦犯裁判で10年の刑を受け、満了まで服役した。その間に大東亜戦争緒戦の蘭印攻略戦の責任者として、ジャカルタでオランダ軍の戦犯裁判を受けこれは無罪。その後、豪軍裁判での10年の刑期を全うするために東京・巣鴨プリズンに送られた。そこで今村大将は、部下のラバウル戦犯がマヌス島という南太平洋上の孤島に収監され、虐待されていることを知った。そこで今村大将はマッカーサー司令部に働きかけ、自らマヌス島での服役を志願した。マッカーサー将軍はこの今村大将の志願に触れ「日本に来て初めて、本当の武士道に触れた気分だ」と言って、これを許可。今村大将は、また野菜の種をたくさん抱えてマヌス島に向かったのである。

 今村大将が来てからマヌス島の戦犯らのモチベーションは回復し、豪軍の戦犯に対する扱いも大きく好転した。今村大将は、50歳以上の服役者で畑仕事をやらせてもらえるよう交渉し、そこで持ってきた種をまき、野菜を収穫した。やがて日本に勤務した豪兵がすき焼きの味を忘れられずに、今村大将らが作ったねぎをタバコと交換しに来るようになった。あるとき将校クラブでボーイ役として使役されていた戦犯が、食べ残されたメロンの種を持ち帰ってきたので、それを畑にまいてみたら3カ月で大量のメロンを収穫できたという、ほのぼのとした話も残っている。

 やがて豪軍はマヌス島刑務所の閉鎖を決め、今村大将らは残る刑期を満了するために再び巣鴨に送られた。すでにわが国は独立しており、巣鴨の戦犯も夜の点呼時に房に戻りさえすれば事実上外出は自由、という状況ではあったが、今村大将は刑期満了まできちんと巣鴨で過ごした。

〔登場者名はすべて仮称〕

(つづく)

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