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特別取材

福岡歴史特集 川邊康晴氏~「変化できる街と人」(中)
特別取材
2013年10月18日 07:00

 1946年、47年には、博多港に中国大陸や朝鮮半島からたくさんの人が引き揚げてきた。博多港に到着後、故郷に戻る人も多かったが、そのまま福岡に残って商人になった人もいた。"闇市"という形でベンチャー企業がたくさんつくられ、人々の衣食住を満たした。福岡の特産品の明太子も、引揚者がもたらした食文化である。

 朝鮮戦争は、米軍基地があった福岡にもプラスの経済効果をもたらした。兵士の休養を助けるサービス、死体を包むサービスなど、戦争関連のさまざまなサービス業が必要とされた。そのため福岡では、北九州のようなものづくりではなく、状況に適応したサービス業が発展していった。福岡は、海に近いし、空港も鉄道もある。サービス産業は、労働集約型の産業だから人がたくさん必要だが、引揚者など仕事をしたい人がゴロゴロいた。さまざまな条件がうまくそろっていた。

 朝鮮戦争が終わると、日本全体では景気後退の波が押し寄せた。しかし、福岡の場合は米軍が残ったため、それほどの打撃はなかった。また、サービスは転用できるため、クリーニング業に転じるなどして、商人は時代に対応していった。

clock.jpg 川邊会長は、九州大学を卒業した1958(昭和33)年、西日本相互銀行に入行した。まだ石炭産業が盛んな時代で、当時の人気企業は1位「三井鉱山」、2位「新日鉄」、3位「国鉄」だったという。西日本相互銀行は大衆向けの金融機関として、ベンチャーのように保証がない人にも貸し出しをしていた。他の銀行より1~2%高い金利だったが、地域の産業に大きく貢献した。

 昭和30年代、福岡市は、他の都市と比べて第3次産業の割合が高いとして、第2次産業の割合を高めようとする政策をとった。ところがうまくいかず、むしろ第3次産業は、1965年には69%、80年には73%、85年には79%と、さらに割合を高め、今では85%に達し、中央区の場合は90%を超えている。このように高まっていったのは、人口が増えたことによって、その人口に対応するための第3次産業が必要になったからである。

 莫大な資本が必要な工場がたくさんある北九州市は、福岡市よりも早く政令指定都市になった。一方、福岡市では昭和40年前後から商業施設が建ち始めた。商売は、工場に比べるとずっと小資本でも始められ、時代の変化に応じて商品やサービスを変えていくことが容易だ。だからこそ、福岡市は、北九州市を追い抜いていったと川邊会長は見ている。

 1963年に、祇園寄りにあった博多駅が今の場所に移転し、福岡市が政令指定都市となった72年には、福岡空港が米軍から返還された。街なかにある空港だけに、建物の高さは制限されたが、76年には天神地下街ができた。多くの天神の商業施設は地下で結ばれ、買い物客にとっての利便性は増した。

 75年3月には、新幹線が博多までやってきて、博多・東京間は6時間56分でつながった。これは大きかった。この年の10月、福岡市の人口は100万人を突破した。79年には路面電車が全面廃止され、翌年、福岡高速道路の香椎・東浜間が開通、そのまた翌年の81年には地下鉄1号線の室見・天神間が部分開業した。路面電車は利用者の少なさから廃止して、自動車の便を図り、地下鉄も導入した。川邊会長は、こうした交通インフラの整備が福岡の発展に大きく寄与したと見ている。また、時の流れの変化に対応するマインドをもった人が多くいないとビジネスはうまくいかないと感じている。
 93年には、地下鉄が福岡空港までつながり、空港までのアクセスがさらに良くなった。大都市の中心部から空港まで10分程度で行けるのは、非常な強みであり、福岡ならではの特色となっている。

(つづく)
【石坂 文】

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