2024年05月07日( 火 )

物語「恩讐の彼方に」――「HY戦争」のホンダとヤマハ発が提携(前)

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 ホンダ(株)とヤマハ発動機(株)は10月5日、排気量50cc以下の原付きバイクの生産や開発で提携すると発表した。原付きバイクは長年、買い物や通勤・通学の足として親しまれてきたが、最近は販売台数が激減していた。驚かせたのは、1980年代前後に、英語の頭文字をとった「HY戦争」と呼ばれる激烈な販売競争を繰り広げた2社が手を組むこと。まさに「恩讐の彼方に」――である。

ヤマハ発50cc以下の原付きバイクの生産から撤退

bike 両社の発表によると、ヤマハ発動機(以下、ヤマハ発)が、排気量50cc以下の原付きバイクの生産から撤退するという内容だ。ヤマハ発は、国内販売の大半を占める「ジョグ」「ビーノ」の生産をやめ、2018年をメドにホンダが「タクト」「ジョルノ」モデルをヤマハ発にOEM(相手先ブランドによる生産)供給する。電動バイク分野でも協力する。

 国内の二輪車販売台数は15年に14年比9.6%減の40.6万台と、2年連続で減少した。ホンダとヤマハ発が「HY戦争」を繰り返していた1980年代初頭には326万台に達した年もあったが、8分の1に縮小した。
 メーカー別のシェアでは、ホンダが43.0%で首位を占め、ヤマハ発が27.0%で次ぐ。12.1%のスズキと合わせた3社で8割を超える

 70~80年代は、バイクを乗り回すことが“かっこいいこと”だったが、暴走族の横行や高校生のバイク事故による死傷者が多発。高校生のバイク利用を禁じた「3ない運動」(免許を取らない、乗らない、買わない)などの規制の強化で、二輪車の売れ行きが激減。地方都市での移動手段は軽自動車が主流になり、電動アシスト自動車の台頭も、二輪車に逆風となった。

 そこでライバル同士が手を組んだ。HY戦争を知っている者には、仰天する出来事だ。

 提携発表の記者会見で、ヤマハ発の渡部克明取締役は〈「私が入社したのはHY戦争で負けた年。5%減俸になった。(現在は)HY戦争によるしこりやわだかまりはもう無い〉(日本経済新聞10月6日付電子版)と語っている。
 HY戦争を知らない世代になって、さまざまな感情を乗り越えて握手したということだろう。

ヤマハ発の二輪車の「生みの親」は本田宗一郎氏

 ヤマハ発とホンダは、ともに静岡県浜松市で誕生した。ホンダの創業者、本田宗一郎氏とヤマハの関係は有名だ。

 ヤマハ発は1955年、日本楽器製造(株)(現・ヤマハ)のオートバイ部門が分離独立してスタート。ヤマハの4代目社長に就任したばかりの川上源一氏が設立した。源一氏の父、嘉市氏は戦前、軍部の要請を受け楽器工場をプロペラ工場に転換するため“日本のエジソン”と言われた本田宗一郎氏を特別顧問に招いた。戦後、プロペラ工場をオートバイの製造に転換するよう助言したのも宗一郎氏だった。
 宗一郎氏は戦後、本田技研工業(株)(現・ホンダ)を設立、オートバイの製造を始めた。宗一郎氏がいなかったら、ヤマハ発の二輪車事業は生まれなかったかもしれない。ホンダもヤマハ発も、“生みの親”は本田宗一郎氏だった。

 時代は移る。宗一郎氏は73年、ホンダ社長に45歳の若さの河島喜好氏を据えた。一方、源一氏は77年、喜好氏の実弟である46歳の河島博氏をヤマハ社長に起用した。ホンダとヤマハは、嘉市=宗一郎時代から河島博=河島喜好兄弟のときまで、蜜月関係にあった。

 佐藤正明著『ホンダ神話――教祖のなき後で』(文春文庫)と有森隆著『世襲企業の興亡』(さくら舎)に基づき、HY戦争を振り返ってみよう。

(つづく)
【森村 和男】

 
(後)

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