2024年05月20日( 月 )

経済小説『落日』(11)誤算1

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谺 丈二 著

 そんな犬飼が思いがけないミスをしたのは、井坂にそろそろ役員の声がかかろうかという時だった。井坂の同期に永木修という男がいた。これといった理由はなかったが、犬飼は何となくその男が好きになれなかった。いわゆる虫が好かないという類いである。

 労働組合の幹部から支店長、部長と順調に出世してきた永木だったが、実務の世界ではほとんど無能と犬飼は見ていた。永木は部内の問題案件を自己リスクで解決しようとするのではなく、傍観者的調整をしてリスクを避けながら、自分の存在を示そうとするいわば姑息な男だった。加えて、融資先からの過剰な接待や物品購入の優遇、さらにそれとなくバックリベートを要求するといったよくない噂もある。たまに永木から声を掛けられることもある犬飼だったが、そんな理由で差し障りない対応でお茶を濁すのがいつものことだった。

「組合幹部上がりということで怖いものなしです。何とかしないと彼は当行の信用を損ないかねません」

 いくつかの証拠をそろえて、犬飼は永木の問題行動を井坂に報告した。半分は自分なりの正義感から、後の半分は将来を見据えてのことだった。永木と井坂は入行時から折り合いがよくないという周囲の噂も犬飼の背中を押した。

 明るく、元気で気さくな永木は一見すると、有能で面倒見がいいという顔をもっている。ひょんなことから井坂のライバルにでもなられたらたまったものではない。井坂もそんな犬飼の思惑を暗黙のうちに察知した。

 ひとまず、犬飼の作戦は成功した。井坂による杉本への根回しで永木は管理部付きの閑職に追いやられた。ところが永木は意外にしぶとかった。逆にそれを利用して、大蔵省から頭取含みで天下ってきた加藤達雄に接近を図ったのだった。

 加藤は自分から孤高を決め込んでいるわけではなかったが、監督官庁の局長経験者という経歴は一般行員だけでなく、幹部までもが加藤の見えない壁を何となく意識してか、いささかの距離を置いて接するのが普通だった。もちろん、そこには生え抜きの頭取石川慶介に対する遠慮もあった。

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 当時の頭取石川は相互銀行時代を含めると15年の長きにわたってトップの座に座り続け、天皇と呼ばれていた。

 13人いる西総銀役員は全員石川の子飼いで、いくら次のトップが加藤に決まっていても、おいそれと加藤に媚を売るわけにはいかない。

 東京に家族を残しての単身赴任だった加藤は時間と孤独を持て余していた。そんな加藤に永木は巧妙にとり入った。永木にも時間は有り余っていた。

 永木は加藤行きつけの店を調べ、そこに足しげく通い、さも偶然に出会ったようにふるまった。食事、ゴルフ、釣り。そのうち永木はフリーパスで会長室に出入りするようになる。

 仕事はともかく、付き合いのいいこの男は地元の財界で結構顔が広かった。そんな永木を加藤は重宝した。頭取になれば地元の財界の役職もそれなりに回ってくる。そのときのサポート役として加藤は永木を便利に使おうと考えていた。

 加藤は戦後間もなく大蔵省に入り、地方財務局長、関税局長とMOFの準主流を歩き、退職後、ナショナルフラッグキャリアの役員を経て西総銀に籍を置いている。

 加藤の父親は生前、東京で弁護士をしていた。母親は勤務医だった。経済的な苦労を知らずに育った加藤は実利より、名誉に価値の軸足を置いていた。退官後は自分が納得できる公職に就き、そこで自分の思いを実現するのが夢だった。

 そんな加藤が思い描いた役職の1つが100年以上の歴史をもつF市の商工会議所の会頭職だった。九州の中核都市であるF市の商工会議所は、単なる地方都市のそれとはまったく違うスケールと顔をもっている。

 アジアへの玄関口として全国の注目を集めるこの100万都市には、国際会議の誘致や政財界を巻き込んだ様々の大型プロジェクトが目白押しだった。会頭になれば都市計画やそれにともなう建設プロジェクトにも、小さくない発言力をもつことができる。加えて、地元政界や自治体との縁も深くなり、地元選出の政治家と中央官庁とのつなぎ役としての出番もある。そんなときの大蔵省出身の力がどんなものか加藤は熟知していた。

 民でも官でもことを動かそうとすれば、まず予算というカネである。そのポイントを握るのが大蔵省であることは誰でも知っている。

 考えてみれば、大蔵には徴税以外の権限としては各省庁から上がってくる予算を査定し、削る権限しかない。事を立案したりそれに何かを加えたり、提案する創造的権限は皆無である。しかし、議員を介しての陳情、根回し、要望を加味するとその削る権限の存在は何にも増して大きい。加藤はその中枢を歩いてきた。

(つづく)

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