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玄界灘の歴史の島・壱岐の食と偉人(後)
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2014年1月31日 09:00

<色褪せぬ功績――電力の鬼・松永安左エ門>
「電力の鬼」松永安左エ門 壱岐が生んだ傑物として最も名高いのは、「電力の鬼」と言われた松永安左エ門だろう。安左エ門が壱岐の石田町に生を受けたのは1875年。福澤諭吉に師事すべく慶応義塾大学に進学した。家庭の事情で中退。ただ、才多く型破りな気質は福澤も認めるところであったという。その後、いくつかの職をわたり歩きながら事業のノウハウを蓄積し、株の相場では明暗も経験。次第に実業家・投資家として頭角を現し、電気事業と深い関わりを持つようになっていった。そして戦後、安左エ門の案を基本にした電力事業再編が進められ、現在の九電力体制が築かれることになる。
 日本の復興と電気事業の発展のために尽くした半面、名誉や権威といったものに対し懐疑的であり続けたことでも知られている。「命知らず」と評される近衛文麿首相に対する諫言や、勲一等瑞宝章叙勲の打診に対して激怒するその姿勢に、終生変わらぬ型破りな気質を垣間見ることができる。役人嫌いであった松永翁は、半ばお役所化した現在の電力会社をどのように見るのだろうか。東日本大震災に端を発する電力事業の改革論争のなか、その功績と思想は、今も色褪せることはない。

<仏教界の傑物、竹田黙雷>
松永翁の功績を称えた記念館(旧松永邸) 福岡の路面電車も同氏の功績の1つ その松永安左エ門をして「日本で一番怖い人物」と言わしめた人物、それが同じく壱岐出身の竹田黙雷である。1854年生まれの竹田黙雷は、幼い時分に出家し、15歳で玄界灘をわたる。福岡の儒学者に学び、1892年、39歳の若さで臨済宗建仁寺派の管長に就いている。建仁寺といえば、宗祖・栄西が開いた鎌倉時代から続く名刹。若くしてトップに立った黙雷の見識がうかがわれるエピソードと言えよう。就任後は、神仏分離令によって荒れていた仏教界を憂い、僧侶の教育と養成に全力を注いだことで知られる。信仰厚き島が生んだ仏教界の傑物、それが竹田黙雷であった。

<俳人・河合曾良の終の棲家>
 島と縁のある偉人ということであれば、筆者は河合曾良を推したい。その存在が、近現代における壱岐の文化史に大きな影響をおよぼしたと思われるからだ。河合曾良は、江戸時代の俳人で松尾芭蕉の門下生。弟子のなかで唯一「奥の細道」の旅に帯同を許された人物として知られる。長野県に生まれ、「木曽川」と「長良川」から俳号をとった河合曾良が、芭蕉と出会ったのは35歳の時。41歳で、曾良は芭蕉の東北巡りに唯一の随行者となる。残念ながら、体の弱かった曾良は旅の途中で別れることになるのだが、その後は幕府の巡見使として働いている。今でいう国勢調査のような役回りをこなすなか、そこに舞い込んだ九州巡見の話に、曾良は小躍りして喜んだという。「春に我 乞食やめても 筑紫かな」の歌に込められたのは、芭蕉が熱望してやまなかった筑紫(福岡)への想いだろう。筑紫巡見は、かつて大役を果たせなかった曾良にとって格別の意味があったようだ。その過程で壱岐にわたった曾良は、再び身体を壊し、壱岐を終の棲家と定めることになる。
 曾良の身の上を想うとやり切れない話ではある。とはいえ、芭蕉門下の一線級の俳人が壱岐に居を構えた事実は、後世の人々にとって大きな意味を持った。事実、この地に生まれた衆議院議員・真鍋儀十は、普通選挙法の成立に尽力するかたわら、我が国を代表する芭蕉研究家となった。東京深川の芭蕉記念館には、儀十による多くの寄贈品が収められている。曾良の存在が、儀十をして芭蕉の研究に駆り立てたことは想像に難しくない。河合曾良が没した借住いの地には、今でも曾良を偲ぶ記念碑が建つ。

 こうしてみると、玄界灘に浮かぶ壱岐島には、濃密な歴史の数々が詰まっていることがわかってくる。博多港からわずか1時間。底の知れない壱岐の魅力は、多くの人々を惹きつけてやまない。

(了)
【田口 芳州】

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