2024年05月08日( 水 )

混沌とする豊洲新市場問題、焦点は建設が進められた過程(前)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 「豊洲新市場の11月7日開場は当面延期します」――小池百合子東京都知事が8月31日に発したこの一言で、これまで日本一の魚河岸である築地市場を豊洲新市場へ移転しようと推進してきた関係者に衝撃が走った。その後の調べでさまざまな問題が浮上し、情報が錯綜している状態だ。いったい豊洲新市場で何が問題となっているのか。改めて検証してみたい。

東京都中央卸売市場は三セクみたいなもの

 小池都知事は、「豊洲新市場の安全性への懸念」「新市場移転にかかる巨額かつ不透明な費用の増加」「情報公開の不足」、この3つが移転延期の理由だと強調した。そのうえで、建築や土壌、公営企業経営の専門家らによるプロジェクトチームを立ち上げて検証するとした。

【図1】豊洲新市場問題をめぐる主な動き 【図1】豊洲新市場問題をめぐる主な動き

 そもそも、なぜ築地市場は現地建て替えでなく豊洲への移転になったのか。経緯を振り返ってみよう【図1】。

 築地市場が開場したのは1935年。水産仲卸業者、青果商、買出業者などで構成され、今では水産物で約480種類、青果物で約270種類を取り扱い、600を超える仲卸業者が店を構えている。

 そんな築地市場を運営するのは、「東京都中央卸売市場」。本社は都庁第1本庁舎内にあり、都の職員が携わっており、トップが市場長、その下に管理部、事業部、新市場整備部がある。地方公営企業法の財務規定などが適用され、都内に築地のほか、大田、豊島、淀橋など11市場を設置。築地はそのうち最も古い歴史を持つ。
 都の元幹部によれば、「あそこは第三セクターみたいなもの。本庁のなかでも遠い場所で仕事をしているという感じで情報はあまり入ってこない」。典型的な縦割り状態だ。

 中央卸売市場が現地建て替えの再整備基本計画が策定したのが、鈴木俊一都知事時代の88年。もともと築地は鉄道貨車の利用が前提の構造で、トラック輸送が主流の今の時代に合わなくなった。車両の明確な導線がないうえに狭いため、市場内での商品運搬用車両同士の衝突や交通渋滞が頻発した。

 また50年以上経って、建物の老朽化も進んだ。市場内では海水をろ過して床の洗浄に使うため、鉄骨の腐食などが進み、鉄板が落下する事故も起こったのだ。そこで88年に再整備計画が策定され、91年工事に着手したが、仮設売場などの整備段階で工期遅れや整備費増大の問題が発生。96年に工事が中断されるまで400億円が浪費された。

 このとき再整備を推進していたのが、水産仲卸業者や地元関係者、それに中央区役所だ。水産仲卸業者にすれば築地から離れれば不便になるから、中央区役所にすれば他の区に移転してしまうと目玉施設がなくなってしまうから、そんな思惑があったのだろう。だが、工事長期化による客足減少に不安を抱いた青果商や買出業者は市場自体の臨海部移転を求めるようになり、98年4月に市場内の業界6団体が都に検討を求める要望書を提出。これが豊洲移転の発端となった。

(つづく)
【大根田 康介】

 
(中)

関連記事