2024年04月26日( 金 )

福岡が逃した貴重な観光資源 幻と消えた常設浮世絵美術館

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 東京・原宿の閑静な路地に、異空間がある。若者や観光客でごった返すラフォーレ原宿に近接し、表参道や明治通り、いずれの大通りからも1本入った閑静な路地沿いにある美術館が外国人観光から好評を得て、多くの来場者を集めている。
 美術館の名は「太田記念美術館」。1980年1月にオープンしたこの美術館には、博多の旧家・太田家当主の5代・太田清蔵が収集した浮世絵コレクション1万4,000点が展示されている。約150坪の敷地に地上2階、地下1階鉄筋コンクリートで造られ、土地建物ともに(公財)太田記念美術館が保有している。
 この膨大な浮世絵コレクションだが、福岡市の所有になっていたかもしれないのだ。

外国人観光客を惹き付ける

太田記念美術館

 太田記念美術館は月ごとに異なるテーマで肉筆画、版画を展示。浮世絵だけで毎月展示品を入れ替えることができるのは、豊富なコレクション数を誇る同館ならではといえよう。5月27日までは、「広重 名所江戸百景」と題して風景画の巨匠・歌川広重が遺した浮世絵125点が前後期に分け展示された。6月2日からは、「江戸の悪PARTⅡ」と題して鼠小僧次郎吉などの盗賊、幡随院長兵衛などの侠客、悪の権力者、悪女、悪の妖術使いなど、実在した悪人から物語に登場する架空の人物まで月岡芳年、東洲斎写楽、歌川国芳、葛飾北斎などの絵師が描いた浮世絵約220点が展示されている。
 「ジャポニズム」の代表的な存在である浮世絵は、欧米人を中心に外国人からの人気も高く、大通りから入った路地に面していながら、太田記念美術館は多くの来場客数を誇る。同館によると、年間の来場客数は約9万人、そのうち約1万6,000人が外国人だという。展示されている浮世絵には日本語と英語で説明文が添えられ、外国人観光客は熱心に浮世絵に見入っている。スマートフォンを片手に大通りから太田記念美術館を目がけ、路地に吸い込まれていく外国人観光客の姿が印象的だ。

指折りの浮世絵コレクター・5代清蔵

 77年に死去した5代清蔵は、欧米旅行で海外における浮世絵の高い評価に触れ、国外に流出していた浮世絵を買い集めるなどして約1万点におよぶ浮世絵を収集。生前公開されることはほとんどなかったものの、世界有数の浮世絵コレクションを築き上げた。
 太田家の当主には、代々「清蔵」の名が受け継がれてきた。なかでも、5代清蔵は東邦生命の社長を務めただけでなく、百貨店・大丸を福岡に誘致し、博多大丸の初代社長も務めた福岡の名士だ。
 貿易都市として古くからアジアの玄関口となっていた福岡市は、うどんや蕎麦、饅頭の発祥の地とされる「承天寺」や日本最初の本格的な禅寺「聖福寺」、菓子のういろうの発祥地とされる「妙楽寺」など、訪れるべき場所は数多い。また、福岡市の観光統計によれば、2017年の外国人入国者数は6年連続で過去最高を更新している。

浮世絵寄贈のチャンス到来

 福岡市は、「観光資源が少ない」といわれるが、外国人観光客を惹きつけてやまない太田記念美術館が市内にできていた可能性があったことは、あまり知られていない。浮世絵コレクターとして名を馳せた5代清蔵が、「相続対策も兼ねて、故人のルーツである福岡市に浮世絵コレクションを寄付したい」と申し出ていた。
 「博多旧市街プロジェクト」と題して、昨年から福岡市は社寺仏閣などを観光資源として活用しようという動きが活発化し始めた。しかし、同プロジェクトが始まる数十年前に、1万点超の浮世絵が市に寄付されるチャンスがあったのだ。当時の福岡市の担当者は、「市側が意思決定に時間をかけすぎたことで、チャンスを失した」と悔しさを滲ませる。
 この市の担当者は、「5代清蔵との出会いのきっかけは、福岡市主催の米国視察ツアーだった。地場大手企業の経営者などが参加したこのツアーで地場有力者と出会い、その方から『浮世絵を福岡市に寄付したい』という5代清蔵を紹介された」と当時を振り返る。

お役所仕事で観光資源を逃す

 福岡市は、ちょうど開館が予定されていた福岡市美術館(79年開館)への寄贈を希望したが、5代清蔵は単独の施設を希望。福岡市美術館ではなく、太田一族が所有していた東区御島崎の土地と東区香椎浜の市有地を交換し、香椎浜に太田を冠した浮世絵美術館を開設することを市側に提案していた。
 しかし、市は「ニセモノも多いんじゃないか」「(香椎浜は)住宅地だから」「市の施設に太田の名前をつけるのはいかがなものか」と渋り、市役所内部での議論は長引いた。議論が続くなか、花守り市長として知られる進藤一馬・福岡市長(当時)が「やりたい」と珍しく自ら身を乗り出して積極的に推進したほか、前出の担当者も「是が非でも福岡市に浮世絵美術館をもってきたい。必ず有効な観光資源となる」として市役所内部に働きかけた。この結果、ついに福岡市は浮世絵美術館の設置を決定。西鉄グランドホテル(福岡市中央区)において、市の担当者からその意志が伝えられた。
 しかし、市役所内部での交渉に時間がかかったことが大きな仇となった。なかなか決まらない「お役所仕事」を続けている間に、5代清蔵は自前で美術館を開設することに決めていたのだ。福岡市への寄贈を望んだ5代清蔵だったが、市の将来のため熱心に働きかけた担当者の努力も虚しく、結果的に美術館が開設されたのは東京・原宿だった。
 5代清蔵が欧米旅行で触れた浮世絵の評価は現代にも通じており、コレクションが展示される太田記念美術館には、連日多くの観光客が押し寄せている。人口減少や少子高齢化により、「観光立国・地域活性化」戦略は国を挙げたプロジェクトとなった。福岡市でも観光客を呼び込むためさまざまな施策を打っているが、仮に常設の浮世絵美術館ができていたとしたら、さらなる観光客を呼び込むことのできる魅力的な観光資源となっていたことだろう。誘致を逃し、悔しがる当時の市の担当者の姿を見ると、残念でならない。

【永上 隼人】

 

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