『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏
朝鮮人差別が日本のそこここにあった時代だった。身体や異民族というハンデを乗り越え、不世出のバッターになった男がいた。
被爆と差別を背負った少年期
張本勲が亡くなった。享年86。
首位打者7回、3,085安打、生涯打率.319。大記録を残し、記憶にも残る名選手の原点は、差別と被爆体験だった。
両親は韓国慶尚南道出身で、勲は広島で生まれた。4人兄弟の末っ子。だが、父親は早くに亡くなっている。
「当時の広島は大日本陸海軍とも重要拠点を置く軍都で、太平洋戦争中の日本で生活する朝鮮人家庭は虐待・差別され、張本一家も六畳一間のトタン屋根のバラックで身を潜めるようにして過ごしていた」(ウィキペディア・フリー百科事典より)
また、4歳の冬に、とってきたサツマイモを焼くために、土手でとんど(小正月〈主に1月15日前後〉に行われる伝統行事「とんど焼き」のこと)を囲んでいた際、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩して、とんどに右半身から飛び込むかたちになり、右手の親指から中指以外の自由を失う大ヤケドを負ってしまう。
さらに張本を原爆が襲った。
「原爆の投下されたとき、姉弟は母によって身をまもられた。姉弟の上にかぶさった母は全身を窓ガラスの破片に刺されて鮮血をふきあげた。(中略)貞子・勲の姉弟は、太田川にかかる橋の下で、罹災の第一夜を明かした。あたりは屍体の山である。その夜八歳の姉と五歳の弟はだれともわからぬ人から、握り飯を一箇ずつもらって飢えをしのいでいる。(中略)すでに広島は死の街である。瓦礫と灰燼の街である」
この文章は、私が週刊現代編集者時代に企画し、後に『シャガールの馬』で直木賞候補になる虫明亜呂無に連載してもらった『王貞治と張本勲』(1976年7月1日号から10回)からの抜粋である(張本は前年オフに巨人に移籍しOH砲といわれていた)。
長姉は全身火傷で1週間後に亡くなった。張本も「被爆者健康手帳」をもっていて、いつ原爆症が発症するのではないかと怯えていたが、誰にも明かさなかった。
虫明亜呂無が描いた「王と張本」
ここで、私と虫明との縁を書いておきたい。
私は当時31歳。虫明は22歳上だから53歳だったか。もともとは競馬仲間である。
ほかには、山口瞳、古山高麗雄、常盤新平、古井由吉、阿佐田哲也、伊集院静、将棋では芹沢博文、米長邦雄など、さまざまな作家や文化人たちがいた。
当時、競馬は「人に隠れてコソコソやる博打」で、“人生のアウトロー”を自称する人たちのたまり場だった。
虫明は文壇の“ボス”山口と離れて、競馬新聞とニラメッコし、穴場(馬券売場)を行ったり来たりしていた。
穴狙いかというとそうではないらしく、360円程度の単勝の当たり馬券を嬉しそうに山口らに見せにきていた。
山口は後で「あんな本命馬券を見せにきて」とブツブツいっていたのを覚えている。
住んでいたのは古い都営住宅か何かだったと思うが、身なりは英国紳士風で帽子を被り、小柄だが堂々としていた。
映画雑誌の編集者を経て、文芸批評、映画評論、スポーツ評論、競馬エッセイなどを書いていたが、一種独特な美学とすばらしい文章で、一部のファンからは熱烈に支持されていた。
『シャガールの馬』(講談社1978年)で直木賞の候補になったが、惜しくも受賞を逃したときは、全身で悔しがっていた。
虫明のスポーツ評論が好きだったので、何か原稿を頼もうと考えていた。
76年に日ハムから巨人に移籍した張本は、王と打ちまくりOH砲と謳われていた。
私は、この2人の国籍に注目した。張本の両親は在日韓国人。王の父親は中国浙江省出身。
ともに外国にルーツをもつ2人だが、プロ野球に入るまでの人生はまったく違った。父親に早く死なれ極貧生活のなかでケンカだけはめっぽう強く、野球選手にならなかったら映画『仁義なき戦い』で描かれたようなヤクザになっていただろうといった張本。
将来は化学者か医者になろうと考え、野球と勉学に励んでいた王。
「長嶋茂雄VS王貞治」という企画はよくあったが、王VS張本というのは、私が知る限りそれまでなかった。
虫明も快諾してくれた。王も張本も、忙しいシーズン中というのにインタビューの時間をとってくれたのは、虫明の作家としての力量を知っていたからだろう。
私も同席して2人に話を聞いたが、圧倒的に面白かったのは張本であった。
長姉を原爆で失った張本は、3歳上の姉・貞子を慕い、貞子は遊び相手でもあった。貞子の結婚が決まると、張本は「家にいてほしい」と駄々をこね、ついには家にきた仲人にバケツの水を頭からかぶせ、「行くな」と号泣したと、貞子が話している。
「結婚式の日には、たしか東映がハワイにキャンプに行く日でしたが、わざわざ広島までやってきました。弟は私の手をとるなり、大声を挙げて『姉さんッ』後は言葉にはなりません。私たちは、抱きあって泪ぼろぼろこぼしあいました」(連載から)
話は遡るが、張本が野球で頭角を現し、高校野球の強豪・浪商へ入るときは大変な騒ぎだったと貞子が話している。
母親は夫に死なれ、一番上の娘を原爆で亡くしているので、張本の大阪行きは許さなかったそうだ。
しかし、張本は、野球をやるなら浪商しかない、浪商に入れないなら死んでもいいといい出し、10日あまり部屋から出てこなかったという。
母親も兄も、それなら仕方ないと許したそうだ。
「もし、野球で食べてゆけなくても、あの乱暴者だったらやくざになっても食べてゆかれるだろうなんて、とうとう、兄が大阪までついていったのです」
と貞子が話している。
張本もインタビューで、父親に早く死なれ極貧生活のなかでケンカだけはめっぽう強かったから、野球選手にならなかったら映画『仁義なき戦い』で描かれたようなヤクザになっていただろうと、虫明に語った。
「野球をやっていれば、貧困、孤立感、その他一切の身のまわりの汚辱と憤怒と悔恨と憎悪が忘却に附せられたのではなかったか」(連載より)
三本指で築いた不世出の打撃
せっかく浪商に入ったものの、暴力沙汰の責任を負わせられるなどで、一度も甲子園の土を踏むことができなかった。
一方の王は、張本とは正反対といってもいいだろう。将来は化学者か医者になろうと考え、野球と勉学に励んでいた。早実に乞われて入り、すぐに脚光を浴び、春の甲子園で優勝している。
数多の球団から誘いがあったが、セ・リーグの“超人気球団”巨人に入団した王。
中日の誘いを断り、東京に住みたいという理由でパ・リーグの“暴れん坊”東映フライヤーズ(現在の日本ハム)に入団した張本。
だが、張本も王も入団早々挫折を味わう。王は投手失格。
当時の東映のコーチ松木謙治郎は、一目見て張本は「物になるバッティングじゃなかった」と語っている。
「(4歳のときの火傷で=筆者注)張本の右手は薬指と小指がくっついたまま曲がっています。つまり右手は三本指で打っている。この右を左にまけないように力をつけてやらねばならなかった。グローブも厚い皮を内に入れて指が曲がらないよう工夫してやりました」
張本の左手の握力は70キロで、右手は30キロ。毎日、練習が終わってから300球以上トスバッティングをした。松木は腰が立たなくなったが、張本は歯を食いしばって打ち続けた。
虫明は、両者のバッティングについてこう書いている。
張本は、「『手首を使わないでも、十分に、バットが振りきれるか、どうか』にかかっているのだと思う。手首を使わないでバットが振れるから、打球は、深く、直線をたどって、遠くへ飛んでいくのではないだろうか」
王は、「ジャストミートしたときにはライナーになってしまう。彼はそれを承知しているから、あえて、大根を叩き切るようなフォームをとる。あれだと、ボールをバットに乗せられるのだ」
対照的なのはバッティングだけではない。
2人の肉体も対照的だと虫明はいう。
「張本勲の肉体は、線がおとなしい。肉も謙虚に存在を主張しているように映る。王の肉体に秋霜烈日の厳しさがあるとするならば、張本の肉体には春風駘蕩の優しさがある。張本は軀全体に丸味をのこしている」
張本は子どものころから暴れん坊ではあったが、「張本は近親相姦的感情に支配されたかのように姉を慕い、姉をとおして、早くも『女』を身近なものに吸収している。彼は官能を契機に野球に酔う」。だが、王は家庭サービスというものを、あえて排除した。「僕はべたべたした生き方は嫌いですね。未練とか、執着とか、そういうものは、なるべく、ふっきってゆきたいです」
といい切った。
家族からは冷淡だと見られているかもしれないが、男としてはそのくらいに見られたほうが良い。「冷淡と見られなくなったようなときは、僕がもう世の中で役に立たなくなったときでしょうね」
私は張本に聞いた。これまでで一番悲しかったことは?
重い口を開き、概ねこう語った。
「広島球場で野球をやることになって(1962年にオールスターゲームが開催されているが、そのときのことだろうか?)、お袋に喜んでもらおうと球場に招待したんだ。だけどね、私がレフトの守備につくと『朝鮮人帰れ!』コールがものすごかった。私は慣れているからいいが、お袋が聞いていると思うと……」
「異民族」の力が国を強くする
引退後、張本はそれまで1度も入ったことがなかった広島の「原爆資料館」を見に行った。戦争反対&核廃絶を強く訴え、多くの講演活動をこなした。
韓国のハンギョレ新聞は、「張本勲さん死去…日本プロ野球の伝説であり核なき世界を夢見た反核の伝道師」と伝えた。
その後、張本は日本に帰化したそうだ。
王は福岡ダイエーホークスの監督になり、日本シリーズで長嶋巨人と戦い、敗れた。
張本は日曜日の『サンデーモーニング』(TBS系)で「ご意見番」になり、“喝!あっぱれ!”で、お茶の間の人気者になった。
虫明は、あくまでも当時の感想だが、後世に名が残る傑出したプロ野球選手は、投手ではビクトル・スタルヒン、金田正一。打者では王貞治と張本勲ではないかと書いている。
全員、「異民族の血がつくり出した大選手なのである」(虫明)。
あれから半世紀が過ぎ、その当時は想像もできなかった何人もの日本人選手が大リーグで活躍している。
だが、アメリカ人にとって、野茂英雄も大谷翔平も山本由伸も「異民族」の人たちである。スポーツの世界だけではなく、どの分野でも異民族パワーは、その国の活力になるのだ。
異民族を排斥しようという今の日本の政治や社会を見ていると、この国の「国力」が落ちている最大の理由は、「異民族のパワーを生かす」という視点に欠けていることではないのか。そう思えてならない。
以下次号。(文中敬称略)
<プロフィール>
元木昌彦(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。









