2025年1月24日 17:50
秘書に就任するにあたって、広太郎さんからは「フィフティ・フィフティで行こう」と言われていた。いわゆる「先生と書生」という関係ではないということだったのだろう。
2025年1月23日 18:00
そして僕にも大きな決断の時がきていた。確か投票日の2、3日前だったと思うが、誘われて遅い夕食に行った。
2025年1月22日 18:00
嵐のような日々が過ぎて、僕は調査課調査第一係長として、引き続き議会事務局に在籍することになった。執行部からは僕の人事異動について打診があったが、局長が出さないと返事したとの話を聞いた。
2025年1月21日 18:00
表立っては動けなくなったが、いろいろやった。もう時効だろう。秘密の一室があてがわれ...
2025年1月17日 17:30
港湾局3年目、いよいよ3月にはアジア太平洋博覧会が開幕するという平成元年(1989)の初め頃だったろうか?
2025年1月16日 17:30
住宅用地26.8㏊を市住宅供給公社に24.4㏊、住宅・都市整備公団に2.4㏊売却することを決め、昭和62年(1987)6月議会に埋め立て地の処分議案を提出した。
2025年1月15日 18:00
昭和61年(1986)4月、港湾局舎は博多区石城町に在り、6年ぶりの天神本庁舎復帰とはならなかった。当時港湾局は、西部と東部の埋め立て事業など、ビッグプロジェクトを抱えていた。
2025年1月14日 17:00
昭和56年(1981)春の人事異動で、高卒ながら41歳で課長級に昇任した柴田さんから指名いただき、都市開発局姪浜開発担当となった。
2025年1月10日 17:40
僕の職業人生を口の悪い友人が「ジェットコースター人生ですね」という。しかも、「ジェットコースターは下りが面白いらしい……」と宣(のたま)う。
2025年1月9日 18:00
「コミュニティの自律経営」とは山崎広太郎市政が行政が目指すべき姿として掲げた目標である。そして今、僕は生まれ育ったまちの町内会長を人生の集大成と見定め、林住期の今を生きている。