2024年04月27日( 土 )

哲学とは「人生論」のことではありません!(4)

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玉川大学文学部人間学科教授 岡本 裕一朗 氏

今では人間のDNAはすっかり解読されています

 ――IT革命に続いて、BT(バイオ・テクノロジー)革命についてはどうですか。

 岡本 1950年代に、ワトソンとクリックがDNAの「二重らせん」構造を解明して以来、生命科学と遺伝子工学が飛躍的に発展しました。現在では、自然界に存在しなかった生物でさえ、人為的に作製できるようになっています。今までバイオ・テクノロジーの向かう先は人間以外の生物でした。しかし、今では人間のDNAはすっかり解読されています。人間に対する遺伝子操作が日程に上るのも、それほど遠くありません。最近では、「ゲノム編集」という技術によって、生物の遺伝子が容易に組み換え可能になっています。2015年に中国で、人間の受精卵に「ゲノム編集」を行ったという報告も発表されました。

トランスヒューマニズム(人間超越主義)を提唱

 この人間の生命に対する人為的な操作という今日の状況については、優生学の復活ではないかと危惧されています。遺伝的な病気を除去することができる点については賛成しても、人間の身体的特徴(身長を高くする、目を大きくする、肌の色を白くする等)に影響を与える点については賛成、反対の意見が分かれています。

 しかし、現在のバイオ・テクノロジーは、古い「ナチス型の優生学」のように、個人の生殖や生命に対して、国家が強制的な措置を加えることはしません。いわば、「リベラルな優生学」とも言えます。
スウェーデン出身の哲学者ニック・ボストロム(オックスフォード大学教授)は現在の人間の能力(身体的・精神的能力)を増強することがどうして「人間の尊厳」を侵害することになるのかという疑問を投げかけます。現在の人間の能力を超えていくことは、むしろ私たち人類の目指す方向ではないのかというわけです。彼は「トランスヒューマニズム(人間超越主義)」を提唱し、1998年に「世界トランスヒューマニスト協会」を設立しました。

刑務所の代わりに道徳ピルを飲むようになる

 バイオの世界では哲学は脳科学とも連携しています。オーストラリア出身の哲学者ピーター・シンガー(プリンストン大学教授)は以下のように語っています。

 「脳科学の研究は他人を援助する道徳的な人と援助しない非道徳的な人の脳で、どのような生化学的相違があるのかを明らかにしてきた。やがては、道徳ピル(他人をより援助するようにさせる薬)に行き着くだろう。そうなると、犯罪者たちに、刑務所に行く代わりに、道徳ピルを飲むという選択肢を提示できるかも知れない」

(『ニューヨークタイムズ』一部抜粋)

 現実離れしたSFの様に思えますが、重要な点は善悪の判断や直観が脳に基づいているため、人間の行動を変えるには脳に働きかけねばならないという発想です。今や、脳画像法によって脳の活動は目に見えるようになってきています。

脳科学が今後、法や道徳に与える影響は決定的

 ポルトガル出身の哲学者・脳科学者のアントニオ・ダマシオ(南カリフォルニア大学教授)は知的な活動と道徳的な活動が脳の異なる領域で行われていることを推測しています。
「脳をみれば犯罪者が分かる」というわけです。もっとも、心のあり方や行動の仕方に関して、脳科学が全面的に解明できたわけではありません。脳と犯罪の相関性についても、詳細なことはほとんど分かっていないと言えます。

 しかし、今のところ初期の段階とは言え、脳科学が今後、法や道徳に与える影響は決定的になると思います。近代的な刑罰制度においては、人々が合理的(理性的)な判断に対する一般的な能力を持っているということが前提に考えられています。犯罪に対する責任として刑務所に収監するのも、自分の行為に反省を加え精神を矯正するためとされています。しかし、今私たちは、刑務所に収容したところで、犯罪者の精神が矯正されるとは限らないことに気づいています。脳科学研究は、まさにこうした近代的な刑罰制度の前提に問いかけているのです。

 ルネッサンス以降の近代社会では、印刷技術によって可能となった書物の研究である「人文主義」と人間に中心をおく「人間主義」が展開されてきました。これらはどちらも「ヒューマニズム」と呼ばれます。ところが現代において、こうした近代ヒューマニズムが終焉しつつあります。すなわち、一方で、情報通信技術の発展(IT革命)によって書物にもとづく「人文主義」が、他方で生命科学と遺伝子工学の発展(BT革命)によって「人間主義」が終わろうとしています。近代を支配した書物の時代と人間の時代が、今や終わり始めたのです。

(つづく)
【金木 亮憲】

<プロフィール>
岡本 裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
 1954年福岡生まれ。九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。九州大学文学部助手を経て、現在は玉川大学文学部人間学科教授。西洋の近現代思想を専門とするが、興味関心は幅広く、領域横断的な研究をしている。
 著書として『フランス現代思想史―構造主義からデリダ以後へ』(中公新書)、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』、『12歳からの現代思想』(以上、ちくま新書)、『モノ・サピエンスー物質化・単一化していく人類』(光文社新書)、『ネオ・プラグマティズムとは何か―ボスト分析哲学の新展開』、『ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち』、『ポストモダンの思想的根拠―9.11と管理社会』、『異議あり!生命・環境倫理学』(以上、ナカニシヤ出版)、『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)など多数。

 

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