2024年04月26日( 金 )

ヨシヒコのぶらり漫歩シリーズ2 北上川の恵みが生んだ岩手・盛岡

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北上川の恩恵で活況を呈してきた盛岡

 盛岡市をぶらり訪れた。福岡の人達は「岩手県は山ばかり」と錯覚している。そうではない、現地を見ればわかる。確かに西側は奥羽山系が走り秋田県との県境となっている。東側には北上山系が横たわり三陸リアス海岸が形成されているのだ。だから「岩手県は山ばかり」というイメージが定着しているのである。ところが現実は、県全体で占める平野の率は福岡県よりも岩手県の方が高い。「では一体、どこに平野があるのか?」という疑問が起きる。

 「奥羽山系と北上山系の間に広大な平野が広がっている」というのが回答である。この平野が成り立ったのは北上川の貢献だ。盛岡市北55キロにある安比高原を源流にして盛岡市、花巻市、北上市、一関市、そして河口にあたる宮城県石巻市まで249㎞の距離を流れている。この川沿いには広大な平野が横たわっており、各都市が岩手県内の中核都市として繁栄してきた。特に盛岡市内には北上川からの支流の分岐点が3か所ある。その水陸の利便性が評価されて、平安後期から陸奥国の中心をなしてきた。

岩手山がどこからでも眺められる

 盛岡市の名物、食べ物・酒などはいろいろあるが、名所旧跡はそれほど多くない。その中でもこれだといえるのが岩手山である。標高2,038メートルの活火山で、『南部片富士』と呼ばれている。岩手山は秋田県境に位置しており、同県の田沢湖まで見下ろすことができる。岩手山の南側を、秋田新幹線が迂回している。盛岡市の何処からもこの岩手山を眺めることができるのが素晴らしいところ。市民は山にかかる雲模様で今日の天気を予測するとか。盛岡市民にとって最大の誇りが「岩手山」なのだ。

盛岡城

岩手山

 現代になって岩手山を有名にしてくれたのが、宮沢賢治の存在である。生誕は1896年8月で花巻市出身だ。盛岡高等農林専門学校に入学のために盛岡へやってきた。学生時代の賢治が土曜、日曜に夜を徹して山歩きをしたのが岩手山である。賢治はその紀行文を数多く残している。当時の金に無い学生たちは散策の為に岩手山登行に専念していたのであろう。賢治を筆頭に、学生たちは岩木山に青春時代の苦楽の墓標を残したのだ。

岩手大学農学部

 賢治の記念館は生誕地花巻市に建っている。盛岡市には現在の岩手大学農学部に石像が建てられているのだ。地元に残っていた賢治は煩悶した結果、上京した。当時列車で13時間を要したそうである。上京後は地元の先輩の援助を受けて作家活動に没頭する。『雨ニモマケズ』、『風の又三郎』など、わずかな制作活動の中で数々の名作を世に送り出した。ところが生来の病弱が命取りになり、1932年36歳の若さで逝去したのだ。賢治はその短命ゆえに、有名になったのは本人の没後であった。

盛岡市から総理大臣を3人輩出

 岩手県出身の内閣総理大臣は数多くいるが、盛岡市出身者は3名。19代内閣総理大臣の原敬、37代米内光政、40代東城英機である。原は幕末の武士から政治家へ転向して『庶民の宰相』と持て囃された。残りの二人は軍人出身。薩長閥という政治力の背景がない岩手県・盛岡市出身者が出世するには、軍隊組織で這い上がっていくのが手っ取り早かったのであろう。もちろん、日本国家が軍事政権に変貌していった時代の流れがあったことも、二人の軍人出身者が内閣総理大臣になったことを後押ししている(東城英機の実質的な育った場所は盛岡でなく東京である)。

活性化のテコ入れが重要な時期

 かつては東北新幹線の最終駅としての地の利を生かすことができた盛岡であったが、いまや鉄路は函館まで伸び、いずれは札幌まで延伸される。東京から最速の「はやて」を利用すれば2時間20分で到着できる。交通の便は良いが、通過駅になってしった盛岡市の人口は減り続け、30万人を割ってしまった。街の中心部でも活気がない。外国人観光客の往来も少ない。地域のリーダーたちは、急いで画期的な振興策を打たないと沈没を免れないだろう。外国人誘致も真剣に講じ、結果をださないと気分はめげるばかりになる。

 
(シリーズ1・6)

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