2024年04月27日( 土 )

私のワンゲル時代(4)

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 2年次、3年次とそれぞれの合宿を体験しました。
 南アルプス、北アルプス、屋久島。もちろん九重や脊振山系など九州の山は本拠地です。
 本土復帰前の沖縄合宿は2年次の春でした。本土復帰前でしたからパスポートを取り鹿児島港から24時間、大海の波に揺られての船旅でした。
 石垣島が目的地でしたが、船の不都合で断念し沖縄北部を歩くことに。とてつもなく大きな嘉手納基地。出発地までのバスから眺める米軍基地は、行けども行けども車窓から消えることはありませんでした。未舗装の田舎道の両端には広大なパイナップル畑が広がり、見かける住民は年寄りと子供ばかり。若者は基地労働者として嘉手納に出稼ぎに行っていたのでしょう。
 足底にマメを作りながら歩き通した沖縄最北端の辺戸岬から、当時の日本領土の最南端、与論島が見えた時は感動しました。
 小学校や幼稚園での寝泊まり。五円玉を握りしめて、「これは大事な日本のお金だとお母さんが言っている」と話してくれたかわいい女子児童(当時、沖縄の通貨はアメリカドル)。迫撃砲の残骸、髑髏(されこうべ)が見られる壕など、生々しい沖縄の戦争の現実を見ることができました。

 そんなワンゲル生活は苦しくもあり、楽しくもあり。汗と涙で明け暮れたのでした。
 苦労を共にしたワンゲルの同期会は、今年で15年になります。当時のワンゲル部顧問の T先生は82歳ですが、東京から参加されています。
 この先生は当時30過ぎの独身でした。集まれば50年前の青春時代に、利害関係もなく一気に昔の仲間にタイムスリップします。孫や病気の話は出ません。すばらしい仲間たち男女13名です。
 脊振山系の道標設置や山開きも先輩や後輩たち、そして現役のワンゲル仲間で行いました。ワンゲルの絆は強くて深いものです。
 ひ弱な私でしたが、古希を過ぎ、登山、スキー、弓道、自転車、写真と種々に謳歌できるのも、ワンゲル時代に汗と涙と日焼けで鍛えた、肉体と精神力があるからと思います。
 卒業して50年を過ぎると病気や膝、腰を痛めて山を歩けない同期や先輩、後輩もいます。ワンゲルのお陰で私は今があると思っています。
 ただいま、最高の人生下り坂を味わっています。
 そして体に良い美味い料理を作ってくれるカミさんにも感謝です。

※ 現在、野呂高原のキャンプ場の山小屋はなくなり、牧場となっています。素晴らしいキャンプ場でした。

2017年9月12日記
脊振の自然を愛する会 代表 池田友行

 
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